ミット)に倣い、もはや中国経錦の本質を失ってしまっている。上代錦論はそれに気づいていない。しかしそれを言うのであれば、経錦たるその原質にせまり、知らねばならない。それをエルミタージュ美術館所蔵品に求めたのである。1.パジリク古墳出土の錦南シベリア、アルタイ山脈のパジリクにおいて巨大な凍結クルガンの墓群が発見された。1929年にグリャズノフが、1947年になってルデンコが3シーズンにわたって詳査し世界的に有名となった(注3)。クルガンは深さ4m、面積約50m2の方形の墓壙で、丸太を2重に組んだ壁と屋根からなり、その内部に木棺や副葬品が納められていた〔図1〕。クルガンの特殊な構造と造営直後に凍結状態となったために、普通ならば腐敗してしまうような有機物質の染織品や皮革品もほぼ完全な状態で残されていた。地下の陳列室にはまた巨大な木製馬車なども再現的に展示されており、そのスケールの大きさに圧倒された。染織遺物は現存する最古の西アジア製のカーペット類、長い衣服を着て絡まる樹木を手にした玉座の女神とマントーを背後に靡かせ馬に乗る有髯の騎士の列を描いた大きなフエルトの壁掛け〔図2〕などが注目された。それらは明らかにスキト・シベリア系であり、北方ステップの文化であるが、それらと共に中国の第Ⅰ型経錦〔図3〕と鎖繍の刺繍〔図4a、b〕が発見されていた。驚異的なことは、これより半世紀後の1982年の中国湖北省江陵馬山1号戦国楚墓の発掘からパジリク絹と確実につながると見られる錦〔図5〕と刺繍〔図6〕が出土したことであった。北と南の遠大な地理的距離にもかかわらず、その直接的な関係が注目された。長江上流の石寨山・江川李家山(雲南省滇池地区)の遺物に北方的要素を見いだしていることと合わせて関心を強めている(注4)。加藤九祚氏によれば、パジリク文化の担い手はヘロドトスの『歴史』にみるスキタイ人と同じ生活様式をもつ民族であることは明らかだが、それがイラン系のサカ族か、また中国資料の月氏なのか諸説があって確定的でない。しかし西アジア、西方スキタイ、中国と関係をもっていたエウロペオイド系であることは確かであるとのことである(注5)。さらに加藤氏は北方騎馬民族と南方中国との関係は中央アジアの遊牧民を媒介してひらかれたのであろうということであるが、筆者はさらなる詳細を知りたく思っている。中国文献に菱文の文字をみない。代わって「貝錦」がみえる(注6)。子安貝で知られるように貝の種類は貨幣価値をもつものであったのであろう。錦に織り込まれた貝の形象が『禹貢』の「織貝」で、2枚貝の片方を象るかのような片菱文のパジリク錦断片は、すなわち貝錦として貨幣価値をもち、価格に応じて裁ち切られたものであ― 3 ―
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