1、大仏開眼⑬後白河院政期における天平絵画及び唐宋絵画の受容に関する調査研究研 究 者:神戸大学 文学部 准教授 増 記 隆 介はじめに後白河院政期(1158~92)を中心とする平安時代末から鎌倉時代への転換期の美術をめぐっては、従来、彫刻史、及び建築史研究において、平氏の南都焼討ちとその後の復興の中で天平彫刻や重源の入宋を背景とする宋仏画、中国江南地方の建築様式が如何に受容されたかについて考察が深められてきた。しかしながら、絵画史研究において、特に当該期における天平絵画の受容の問題については、あまり注意が払われていない。天平絵画に基づく「倶舎曼荼羅」(東大寺)の制作は、これに先行する挿話的な事象であり、一方、復古的な南都仏画の盛行はこれに遅れるものとされ、その発生の契機についての議論は行われていない。また、絵巻物を主とする蓮華王院宝蔵の絵画コレクションの形成についても摂関家の平等院経蔵や王家による勝光明院宝蔵等に連なるものとされたが、正倉院宝物や北宋末の徽宗コレクション等との関わりについては議論の俎上に上がっていない。本研究は、絵画史における後白河院政期の一断面を天平絵画、及び唐宋絵画の受容という視点から再考するものである。文治元年(1185)8月28日、後白河法皇(1127~92)〔図1〕は、「自京中并諸国参詣之輩」(『山槐記』)が満ちる中、復興成った東大寺大仏開眼の筆を執った。大仏の前には一旒の幡が立てられた。この幡は、天平勝宝4年(752)聖武天皇(701~56)による大仏開眼の折に同じく大仏殿を荘厳したものであり、法皇が手にした筆も天平の菩提栴那が用いたそれを正倉院から出蔵したものであった。また、正倉院の前に仮設された法皇の宿所は、竹の柱に松葉を葺いた構えであり、それは白楽天の「香炉峰下に新たに山居を卜し草堂初めて成りて、偶東壁に題す」(『白氏文集』)に説かれる唐の隠者、もしくは光源氏の須磨流謫の様を思い起こさせ、国宝「山水屏風」(京都国立博物館)〔図2〕に描かれた隠者の庵を彷彿とした。さて、この文治の大仏開眼に際して、法皇は二つの宝物群と関わりを持っている。一つは、正倉院に納められた聖武天皇ゆかりの正倉院宝物であり、一つは、還御の折に立ち寄った平等院経蔵に納められた藤原道長(966~1028)以来の摂関家相伝の宝物である。正倉院宝物については、これより先、嘉応2年(1170)4月東大寺戒壇院における受戒に際して既に一見している(『兵範記』)。― 135 ―
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