鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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さて、治承の兵火からの復興を画するこの開眼供養にあたって正倉院の傍らに「山水屏風」に描かれた隠者の庵を思わせる唐風の古様な宿所が設けられたことも象徴的な出来事であろう(注1)。そして、天平の幡、菩提栴那の筆。正倉院宝物が体現する「唐」のモードに法皇自身が意識的に関わろうとしたことが推察される。そして、東大寺における「唐」は、正倉院宝物だけではない。大仏の足許には治承の兵火にかろうじて焼け残った台座蓮弁に線刻された蓮華蔵世界が広がっていた。一方の藤原氏による平等院経蔵の宝物は、そこに納められた北宋勅版一切経に依拠した平等院一切経に象徴されるように、正倉院宝物が体現する唐に続く、五代から北宋にかけての東アジアの造形世界の一端を垣間見ることのできる場であった。後白河法皇は、既に保元3年(1158)10月にこれを見ている(『兵範記』)。つまり、後白河法皇は、二度に渡って唐から北宋に至る、すなわち我が国の天平から初期院政期に至る中国の文物を概観したことになる。2、妙法院「後白河法皇像」と唐代花鳥図妙法院「後白河法皇像」は、左手に巻子、右手に古様な数珠を執った法体姿の法皇を描く。その姿は、謹直な墨線を用いて描かれるが、面貌には少し細めの、着衣には少し太い大らかな線を用いる。暈による立体表現は控えめであり、12世紀の「勤操僧正像」(普門院)等、平安時代以来の高僧像のそれに連なる穏やかな表現を志向している。後白河法皇の肖像画としては、紙本の「天皇摂関大臣影」(宮内庁)、「天皇摂関影」(徳川美術館)及び法住寺陵彫像の胎内に納入された白描画像があり、絹本の著彩画として他に神護寺本がある(注2)。いずれも法体姿の老相に描かれており、この点においては本像とも一致する。しかしながらその頭頂は扁平で中央が窪むものであり、本像とは異なる。本像の円い頭頂は「天皇摂関大臣影」中の鳥羽法皇(1103~56)像のそれに近いとする見方もある(注3)。ただし、鳥羽法皇像はいずれも下膨れの面貌にあらわされる点、本像とは異なる。本像の像主については再検討する必要があろう。本像は誰を描いたものなのだろうか。そのことを考えるには、その背後に描かれた花鳥図を分析することが必要となる。像主の背後向かって左には障子絵らしき花鳥図が、右にはその手前に屏風絵と見られる縦長の花鳥図が配される。花鳥図は、花鳥、蝶、岩石等いずれも鈎勒描に淡彩を施してあらわされる。前者の中心をなすのは、左側に一際大きく描かれた岩石と花鳥であるが、よく目を凝らすと、右上方にも一叢の下草があまり大きさをかえずに同一― 136 ―

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