鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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3、後白河院周辺の仏画と天平絵画平面上に描かれていることがわかる。つまり、この画面では、奥行き表現を伴わずに文様的に花鳥を配していることがわかる。一方後者は、鳥の止まる花木の根元から手前にかけて地面を象徴するかすれた墨の横線が引かれることで地面に奥行きを付与する感覚が認められる。よって、前者については、晩唐の王公淑夫妻合葬墓(838年)「牡丹図壁画」〔図3〕や五代・王処直墓壁画(924年)といった墓室の大画面壁画に連なりつつ、いずれのモティーフをも鈎勒描とする点ではより前者に近いと言える。また、後者については、トゥルファン・アスターナ晩唐墓の「花鳥図屏風壁画」から、葉茂台7号遼墓出土「竹雀双兎図」(10世紀後半)にいたる縦長画面の花鳥図の伝統に依拠しつつ、後発の没骨技法を用いない点ではやはり前者に近い(注4)。そして、我が国において、これらの花鳥表現は、以下にあげる正倉院宝物や東大寺伝来の宝物の中に認められる。正倉院宝物の中では、唐・開元23年(735)の制作と目される「金銀平文琴」(正倉院)の画面中央左寄りに岩、夾竹桃のような植物にとまる二羽の鳥、周囲を飛ぶ蝶があらわされ、妙法院本の基本的なモティーフが、その平面的な配置とともに既に出揃っている。草花と鳥、蝶という組み合わせは、「檜金銀絵経筒」(正倉院)や「灌仏盤」(東大寺)の外側面の装飾にも認められる。さらにそのモティーフとともに鈎勒描という技法上からも注目されるのは、「檜彩絵花鳥櫃」(正倉院)〔図4〕であろう。以上の検討から、これらの花鳥図は、唐代花鳥図、そして天平絵画の余香を伝えるものと見られる。寛和2年(986)円融院は、東大寺における受戒に際して、古様な「催馬楽屏風」を立て回したことが知られるが(『円融院御受戒記』)、肖像の背後に唐風の花鳥図を描くという構想には、東大寺、すなわち天平文化の復興者としての後白河法皇のイメージが存在したことを想像させる。よって、本稿では妙法院本は後白河法皇の肖像であると考えたい。後白河院政期の仏画の特質として注目されるのは、天平絵画の復古と思われる様式が明示的に認められることである。特に大画面にあらわされたモニュメンタルな画像にそれがあらわれる。具体的には、既に中野玄三、梶谷亮治両氏が指摘されているように(注5)、信西の息・明遍(1142~1224)の周辺で制作された「阿弥陀三尊像」(蓮華三昧院)の図様が東大寺「大仏蓮弁線刻画」〔図5〕に取材していると見られる。また、その制作に後白河法皇の関与が指摘されている(注6)「阿弥陀聖衆来迎図」― 137 ―

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