鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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(有志八幡講十八箇院)〔図6〕に見られる正面性の強い阿弥陀、諸菩薩の姿を大画面に展開するありようも、これまで指摘がないが「大仏蓮弁線刻画」を彷彿させる。ただし、「大仏蓮弁線刻画」の菩薩の図様と「応徳涅槃図」(金剛峰寺)の菩薩のそれに既に類似点が認められ、天平絵画へのまなざしとともに白河院政期の巨大な仏画様式への強い意識が介在していることを見逃してはならない。また、「応徳涅槃図」は、邵博『邵氏聞見後録』に記録された呉道子の涅槃図の図様を継承している可能性もあり(注7)、そうであれば、この類似は、ともに唐代仏画を志向した結果とも見なすことが許されよう。そして「阿弥陀聖衆来迎図」の山水表現には、「法華堂根本曼陀羅」(ボストン美術館)の樹木や懸崖の形態との類似も認められる。ただし、その表現はより洗練されたものであり、唐代から北宋へと展開した山水表現の変化を反映したものであろう。さらに重源がその制作に関与したと見られる(注8)「阿弥陀三尊及び童子像」(法華寺)の阿弥陀の図様が、天平宝字4年(760)6月に崩じた光明皇太后追善の御斎会に用いられた阿弥陀如来像に基づく興福寺講堂像に依拠していることが指摘されている(注9)。また、上記の諸作例のように後白河法皇周辺の直接的な関与は想定しがたいが、一連のいわゆる「南都仏画」の華開いた時代が12世紀末から13世紀前半であることは、この絵画現象が後白河院政期における天平絵画への憧憬によって惹起されたものであることを推察させる。そうであれば、古様な図像の選択等において南都仏画としての性質を如実に示しながらも、鳥羽院政期以来の華麗な截金表現を有するという、筆線と彩色を主とする南都仏画の様式とは隔絶した存在である「十一面観音像」(奈良国立博物館)〔図7〕は、この「南都仏画」の盛行という絵画史的状況の劈頭を飾るべき作品として後白河法皇周辺で制作された画像であると見なせないだろうか(注10)。このように後白河院政期の仏画は、白河院政期、鳥羽院政期の仏画様式を継承しながらもさらに天平絵画という古典様式を明示的に取り入れることにより、天平絵画に余香を遺す、唐を中心とした東アジア国際様式をも吸収したものであり、平安仏画の大団円として誠にふさわしい様式を形成するに至ったと言えよう。4、絵巻制作と天平・唐宋絵画さて、このような天平絵画へのまなざしは、絵巻の世界にも及んでいると見られる。それを象徴するのは「信貴山縁起絵巻」(朝護孫子寺)の存在であろう。その制作時― 138 ―

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