鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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ろう。後述されるノイン・ウラ出土錦がきわめて政略的な贈与品であるのに対して、南シベリアのパジリクと中国の間では然るべき商行為が成立していたのであろうかと考察される。所説「絹馬交易」が注目される。2.イルモヴァヤ・パディ出土錦とローラン出土錦の比較錦の世界史を求めて中国古代の絹資料を探求し多数の論文を発表していたK.リブーは、1968年、エルミタージュ美術館のルーボ・レスニチェンコとCIETAの技術部門のG.ヴィアルと共に、1928~29年にソスノフスキーがイルモヴァヤ・パディで発掘した錦<1354/149>とスタインが第3次ローラン地方の調査(1913~16)で発見し、インド、ニューデリー国立博物館中央アジア部所蔵となっている錦<L.C.03>の2錦が相互できわめて似通っているところから、克明な比較研究をおこなった(注7)。いずれも、黄褐色と白茶、青の3重経平地の経錦で、文様構成は図にみるように酷似している。しかし模様の細部で異なっている。I.P.錦では中心部渦巻き文の頂に左右二股に分かれる渦巻き文がみえ、文字は「世」が読める〔図7a、b〕。L.C.錦のその部位は後を振り返る鳥文で、織銘は「樂」である〔図8〕。それにもかかわらず円形の外廓をつくるモチーフは大きく異なるところがない。リブーの文様研究と共に技術のヴィアルが分析調査をしている。両氏の研究は、筆者が構築した古典的錦4型の、その第Ⅰ型経錦の特質を明らかにしようとするものであったと言ってよいが、こうしてそれまで詳らかでなかった経錦の特質が明らかになって来た。惜しまれることに上記3方はすでに故人となられ、古代染織の総括的結論はなお道半ばとなった。それから10余年が経過した。筆者の「古典的錦4型」の構想はここから導き出されてきた。3.北蒙古ノイン・ウラ発見の錦ノイン・ウラの匈奴墓の出土遺物に関しては、わが国で出版された梅原末治博士の著書がある(注8)。蒙古人民共和国のウランバートルとキャフタの中間に位置し、200基をこえる墳丘の墓群で、コズロフが率いるソ連学術調査隊が1924-25年にかけてその主な10基を調査した(注9)。地下深く構築された木槨墓は中国漢代の古墓にほぼちかい制をもっているという。そのもっとも大きい第6号墳から、盗掘の被害にも― 4 ―K.リブー氏らの論文において引用掲載されているI.P.<1354/149>がソスノフスキーの描き起し図でしかないのに対して、今回、その実物を撮影することができた。資料は全体に黄色に化して模様の青、緑、薄茶は見ただけでは判然としない〔図7a参照〕。

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