鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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期については、秋山光和氏による12世紀前半とする説が主流となっているが、小川裕充氏は同世紀後半の可能性を示唆されている(注11)。さて、同氏が指摘されたように「信貴山縁起絵巻」のうち「延喜加持の巻」の命蓮の庵をめぐる山水構成には、正倉院「騎象奏楽図」のそれとの共通性が認められる。また人物の細い線描と樹木等の太いそれを使い分けることは唐代道釈人物画のありようを踏襲する。そして「尼君の巻」には、正面観で捉えた大仏の姿が雄大かつ精緻に描かれる〔図8〕が、その姿は、そこにも描かれた「大仏蓮弁線刻画」の盧舎那仏の姿を想起させる。また、泉武夫氏が指摘されたように(注12)、その幾分目のつり上がった面貌は「阿弥陀聖衆来迎図」の主尊のそれに近似し、これらが共に東大寺大仏のイメージを共有していることを示唆する。このことから本絵巻の制作も後白河院政期を含む12世紀後半とみなされる(注13)。さて、後白河法皇と絵巻制作、その蓮華王院宝蔵への収蔵をめぐっては、「病草紙」や「地獄草紙」等、六道絵をなしたと考えられる絵巻群について研究が深められている。さらに歴史的な過去への視点は、都の過去の大事件を主題とした「伴大納言絵巻」(出光美術館)を生み出し、人智を越えた神仏をめぐる霊験への期待は「信貴山縁起絵巻」や「粉河寺縁起絵巻」(粉河寺)等に結実している。特に後者は、後白河法皇の観音信仰を象徴し、その基層は奈良国立博物館「十一面観音像」とも通底する。また「伴大納言絵巻」の応天門炎上の場面の光に対する鋭敏な感覚は特筆される。すなわち、火事場に駆けつけ汗ばんだ民衆の顔に炎が反映する様子が丹を額や頬に施すことで巧みにあらわされている。これは、「応徳涅槃図」において、釈迦の最も近くにある慈氏菩薩に金泥かと思われる色が淡く刷かれ、釈迦の発する光が反映する様をあらわすことや「釈迦金棺出現図」(京都国立博物館)において、摩耶夫人を中心とする釈迦の前方の会衆に白色の照暈を多用し、釈迦の身光の反映をあらわす感覚を継承したものとみなされる。それがこれらの作品を描いた絵師たちから常磐光長への継承であったのか。それとも「応徳涅槃図」や「釈迦金棺出現図」の彩色表現の元となった北宋仏画の彩色技法の一部が、「夏秋冬山水図」(久遠寺・金地院)の微細な金泥表現や普悦筆「阿弥陀三尊像」の明滅するような朧な光背表現など、北宋末から南宋の絵画へと継承され、それを改めて受容したものかは一概に決められないが、蓮華王院宝蔵に宋本孔雀明王曼荼羅が存在していたことには注目してよい(注14)。そして、この点で北宋における山水画の達成を反映した山水表現を有する「阿弥陀聖衆来迎図」は、その大画面である点に白河院政期の壮大な様式を備え、さらに鳥羽院政期の精緻な彩色表現が融合した巨大な来迎図として、やはり後白河院周辺で制作― 139 ―

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