鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴ 東寺旧蔵「山水屏風」と唐代絵画との関わりについては、板倉聖哲「東寺旧蔵『山水屏風』が⑵ 後白河法皇の肖像画については、宮島新一『肖像画』吉川弘文館、1994年を参照。また、『正法念処経』の採用が正倉院宝物の有する性質の受容という側面をも有している可能性は、他ならない甲巻と乙巻自体に正倉院の絵画との関係が認められる(注20)ことからも推察される。ここで、甲巻についても正倉院の絵画との関連を少しだけ指摘しておきたい。一つは、「山水鳥獣・草花鳥虫図(檜和琴磯飾)」の兎と鹿の図様である。もう一つは、「密陀絵盆」に見られる鹿のような霊獣が川を渡る図様〔図9〕であり、甲巻の巻頭、兎が鹿に乗り川を渡るそれと酷似する。このように後白河法皇周辺における六道絵及び「鳥獣人物戯画」のうち甲巻、乙巻の制作の構想には、『正法念処経』を通じた正倉院の絵画への眼差しが存在した可能性を指摘したい。そして、このように見る時、「年中行事絵」や「伴大納言絵巻」という当該期の宮中や過去の都の出来事を描く絵巻の制作は、「国図屏風六扇」や「大唐勤政楼前観楽図屏風六扇」、「大唐古様宮殿画屏風六扇」といった唐の宮中や都のありさまを描いた正倉院の屏風群を絵巻の形式で、しかも自国の出来事を描くという二重の変換を経たものであった可能性も考察する余地があるのではないだろうか。勿論、さらにその背景には、壁画を中心とする大画面絵画が掛幅や巻子という鑑賞絵画へと転換する、唐から宋への絵画形式の変容という状況もある。また「年中行事絵巻」の制作には「清明上河図」(北京故宮博物院)のような都市を描く絵画の成立が深く関わっていることも当然予測される。これらを含めて、我が国にどのような絵画表現が相応しいのか、それを選択し描かれたのが蓮華王院宝蔵の絵巻群であったのではないだろうか。おわりに以上、後白河院政期における天平絵画及び唐宋絵画の受容について、いくつかの例をあげながら概観した。その内容は、絵画表現、コレクション形成、コレクションが意図する文化的戦略等、多岐に渡る。それらを一つずつ真摯に検討して行くことは、これにつづく鎌倉絵画の形成の具体相を明らかにすることに繋がって行くはずである。今後の課題としたい。示す『唐』の位相」『講座日本美術史2 形態の伝承』東京大学出版会、2005年を参照。― 141 ―

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