の基準を満たしながらも、西洋の現代美術とは一線を画すものとして扱われる。従って世界美術史は、西洋中心主義が生み出した排外思想への自省を動機としながらも、本質的に西洋美術史の原則を保ちつつ拡張化したものと考えられる。それは、非西洋圏の美術を従来の「Avant-garde」として扱い、モダニズムで目指した創造上の進化を時間的継起的な連続性により捉える代わりに、空間的同時的な関係性から歴史の存続を目指しているように見受けられる。世界美術史上で「現代日本美術」の概念は、西洋の「現代美術」と同化することはなく、常に「日本」という下げ札をぶら下げさせられ、西洋の「現代美術」に従属的な立場を強いられる。非西洋圏の現代美術の類別化は、世界美術史形成により発生した事象ではなく、美術史の歴史と共に歩んできた美術史に内在する本質的問題とも言える。しかしながら、日本からはこの構造が見え難い。それは、世界美術史が展開する世界観に日本が「属する」ことによる達成感が生み出す疑念の影の消失、言語が生み出す距離感、また日本における「普遍性」の理解と、西洋の「普遍」の概念のずれによるところが大きい。他方、日本において「日本現代美術」の国際的文脈への統合は、戦後から常に目途として存在してきた。それが初めて視程距離内に入ってきたのが1956年以降のアンフォルメル旋風であろう。1966年には針生一郎がアンフォルメルと共にアクション・ペインティングに触れ、「戦後─国際的な同時性の成立ヘ」と題し、日本現代美術は欧米での美術動向と同調している、とした既成事実を設定しようと試みる。針生は、「日本の現代美術が、いやおうなく世界的な視野と動向のうちに組み込まれ、国際的な同時代性の意識が成立したこと、そこに私は戦前と区別される問題の核心をみいだす。」とし、日本現代美術が国際的潮流に乗ったことにより日本の戦後の終焉が導き出された、とした(注1)。ここで「既成事実」と表した理由を述べる為に、今泉篤男が同年「Contemporary Artists in Japan」展の図録に寄せた文との比較をしたい。今泉は、「正真の国際的な美術家である為には、まず『正真の日本人』にならなければならない、というようなことが幾人かの日本人画家の中で認識され始めている。つまり、人種的、地域的な身元を割らない限り、美術の真の意義を果たすことは殆どないのだ(筆者訳)」と観察している(注2)。ここで今泉が触れる「美術」とは、「西洋美術」を指す事に疑いはないだろう。戦後欧米で活躍する日本人作家は、自分の作品が「日本美術」の現代版であることを表明しない限り、国際化する現代美術の文脈に取り入れられることはなかった。西洋美術との種別化がなければ、「現代日本美術」は「現代美術」に成り得る可能性を持っていたからだ、と言えるのではないだろうか。これは現在世界美術史― 147 ―
元のページ ../index.html#158