が暗黙に規程する全世界統合の条件と合致することを示しているだけでなく、西洋美術史上脈々と続いてきた西洋の美術と非西洋圏の美術との境界の管理に関わる問題であり、今泉は日本人作家の国際的な文脈への刻み込みは、条件付きでなければ成り立たないことに気づいていた。針生が言うような日本現代美術が「いやおうなく世界的な視野と動向のうちに組み込まれ」ていた事実は、一体何を具体的に指していたのであろうか。ここでは日欧米の作家同志の個人的な交流を指しているようには思えない。針生と今泉の日本現代美術の位置づけに関する認識の差異は、日本と欧米での「日本現代美術」の在処の認識の違いを象徴している。日本現代美術の在処をもう少し具体的に考察したい。日本において現代美術は抽象絵画から始まった、と言い切るのは難しい。しかしながら、欧米、特に米国において最初に「現代『日本美術』」として紹介されたのは、抽象絵画であった。その抽象絵画とは、アンフォルメル旋風が日本を横断する以前に欧米諸国で紹介され始めた前衛書道である。欧米で前衛書道は1950年代から1960年代にかけて「現代『日本美術』」の概念形成の重要な基軸を担った。それに対し日本では、日本の現代美術と前衛書道との重要な関わりに関して菅原教夫、瀬木慎一、中ザワヒデキが指摘しているが、国際的な文脈で日本現代美術を語る際に、必ずと言っていい程閑却されている。これは偶然ではないだろう。日本の美術批評は戦後、西洋の「fine art」の概念に倣うべく書や版画を現代美術としての枠組みから閉め出そうとしていなかったか。前衛書道に焦点を当て日本現代美術の概念を考察すると、日本と西洋では完全にベクトルの向きが違っていた事が分かる。従って、前衛書道の意義、またそれが抽象絵画として占めた位置を比較することにより、日英二言語間での「日本現代美術」の概念構築の歪みを浮き彫りにすることができる。それでは、1950年代から1960年代初頭までの米国と日本の状況はどうであったのだろうか。1954年、ニューヨーク近代美術館において米国で初めての前衛書道の展覧会『Abstract Japanese Calligraphy』が開催され、35人の書家の作品が展示された。ニューヨーク近代美術館では前衛書道は「文字の絵画」と表現され「描かれた」抽象形態は文字であることが強調された(注3)。しかし、『ニューヨークタイムズ』紙の美術評論家ハワード・デヴレーは同展の展示作品を「紙上の墨絵画」とし、その絵画性と米国で隆盛を極め始めたアクション・ペインティングに代表される抽象画との近似性に触れた(注4)。その後、前衛書道が文字であるという事実は次第に米国人の意識から薄れていく。1957年にニューヨークで開催された篠田桃紅の個展評で美術批評家のドーア・アシュトンは、篠田を「書道画家」、「抽象画家」と表し、前衛書道の抽象性― 148 ―
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