鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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を日本の伝統からの超越と解釈した(注5)。1960年代に入り、1964年にコルコーランギャラリーで開催された『Contemporary Japanese Painting』展には18人中、比田井南谷、森田子龍、岡部蒼風の3人の前衛書道家が出品作家として参加し、日本では明治以降種別化された書と絵画は、「現代日本絵画」という西洋で形成された特殊な概念の下で1つに類型化された〔図1〕。また、美術批評家エリセ・グリリは図録に寄せた文に、日本の現代絵画は「何か特別で、漠然と何かが違い、『日本的』でどこかモダンでありながら、東洋的伝統色を帯びている(筆者訳)」と記し、「日本」の文化的側面を強調しながら、日本現代美術を「日本」に固有の統一した概念として構築しようと試みる(注6)。ニューヨークタイムズの美術評論家のジョン・キャナデイはこの展覧会評で、日本の抽象絵画の素材、また表現手段に顕れた「日本性」を手放しで絶賛すると同時に、西洋の作家と張り合う為に日本の作家は伝統への回帰を標榜したのだ、との私見を述べた(注7)。この批評で最も強調された点は日本の現代絵画の賞賛ではなく、米国と日本の作家の対比であり、そこに投影された過去に針路を定めると理解された日本の作家の姿であった。だが、キャナデイは1965年にサンフランシスコ美術館から始まり米国で8館を巡回した「The New Japanese Painting and Sculpture」展をニューヨーク近代美術館で観覧し、180度態度を変換する。この46人の作家が出品した展覧会は同館の図画版画部の学芸員であったウィリアム S・リーバーマンが意図的に書、伝統的な技法により紙の上に描かれた絵画、また版画を省き日本の絵画彫刻の「国際的な傾向」を呈示する意図で企画された展覧会であった〔図2〕。それに対しキャナデイは『ニューヨークタイムズ』紙に寄せた「新しい、一体どういう意味で?(筆者訳)」と題した展覧会評で、日本の現代絵画と彫刻は欧米の1950年代の抽象表現主義の模倣であるとし、日本の現代美術に伝統的な素材、技法を用いた「日本性」の明示がなければ、作品がまるで無意味であるかのように辛辣に評した(注8)。それは西洋の現代絵画と彫刻との距離を縮めることは決して許されないのだ、とも取れる語気であった。日本でもキャナデイの酷評は佐藤愛一郎の「見破られた日本の現代美術の模倣性」の中で報告されているが、その中で佐藤は模倣をもうやめるべきではないか、と応じている(注9)。しかしながら、欧米での日本現代美術批評で度々繰り返される「模倣」批判は、純粋に「模倣」に向けられた批判なのか、今一度読みほどく必要があるのではないだろうか。日英二言語間の美術批評の比較考察から、「模倣」という非難は、「模倣」を標的にしている訳ではなく、「模倣」と非難することにより達成されるべく目標があったからではないか、と考えられる。これは、エドワードW・サイードが『オリエンタ― 149 ―

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