鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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リスム』(1979)で指摘した、西洋の他者としての「オリエント」と「日本」を重ね合わせることで明確化する(注10)。西洋は、この場合「日本」を他者として設定することにより、それに相対して美術を歴史化する主体としての地位を保つのだ。また、日本現代美術には「模倣」か「伝統ヘの回帰」以外の選択肢が与えられていないのも、同様の理由によるのではないか。稲賀繁美が指摘するように「『西洋』の追従でなければ『伝統』墨守という二律背反を強いられた第三世界は、かくしてみずからに『正統』な『前衛』を所有する権利をはじめから奪われて」いるのである(注11)。つまり、日本が国際的な文脈で「現代美術」として確立できる可能性は前もって排除されており、世界美術史の構造上「日本」は西洋と同化出来ないのである。これに対し、日本での抽象絵画と前衛書道の周辺はどうだったのであろうか。その現代美術批評の見地からは見え難い文脈を追ってみたい。最も早くその接点を探り始めたのは森田子龍が創刊した『書の美』誌に1950年9月号から掲載され、その後『墨美』に引き継がれた「α部選評」である。それは抽象絵画、書を問わず公募形式で集められた作品を長谷川三郎が選評した頁である。天野一夫は、1937年に既に著書『アブストラクトアート』で「書道が最も純粋な芸術であるように、抽象芸術は、最も純粋な造形意識の具現である」と、長谷川が書と抽象絵画の親密性を洞察している、と指摘している(注12)。日本において前衛書道は、欧米とは対照的に「日本」の殻を破り、世界に通用する芸術表現としての地位を目指していた。戦後に前衛書道と抽象絵画との接点が最も顕著に現れたものの一つには、1951年6月に発行された『墨美』創刊号におけるフランツ・クラインの特集が挙げられる〔図3〕。そこには、イサム・ノグチから紹介を受けた書的抽象画家であるクラインの作品の図版が所狭しと掲載された(注13)。その特集は「古い東洋と新しい西洋とに關する隨想」と題され、長谷川が継続的に欧米の作家を紹介しながら、(抽象)絵画と書の交差点を探るだけでなく、芸術に関わる人間としての普遍的な共通項を考察する場となっていた。創刊号では、クラインとの美学的「共通の地盤」を挙げ、「我々が深く考えなければならない事は、『抽象繪畫』とか、アブストラクト・アートとか言うものは、決して、元々西洋に存在していたものではない、と言う事である」と前衛書道と抽象絵画の分ち難い関係性だけでなく、西洋と日本が共有する抽象絵画周辺の美学は、西洋先導ではない点を強調し、そこに新たな日本の書芸術の未来を描き出そうとした(注14)。その後1952年に森田により墨人会、吉原治良により現代美術懇談会が発足し、書と造形芸術の接点を探る機会が増えていく。しかし瀬木慎一が指摘するように、このよ― 150 ―

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