鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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うな親密な関係性は美術批評界からは注目される事なく、また関西に限られ東京では全く発生しなかった(注15)。そのような背景の中で、1953年6月19日に「書と抽象絵画」を議題に掲げた座談会が大阪で開かれ、そこには先に挙げた森田と吉原の他に、抽象画家、前衛書家、司会を含め6名が参加した。この座談会は、「描くこと」と「書くこと」に携わる者が最短距離まで接近した一つの場であり、双方の思想的共通項を見いだす契機であったと同時に、相容れぬ芸術観の軋轢が表面化した集いでもあった。1951年の『墨美』2号に掲載された「書らしくない書」に「このような繪をかけないものかと考えた」と書への羨望とも言えるような考えを示しておきながら吉原はこの座談会で前衛書道の限界について以下のように述べる(注16)。「非常に大きな書道の制約ですね。それは、文字性のためにあるということをつくづく感じているのですがね。・・・制約をふみこえてむしろ造形性に殉ずべきではないか。ここまできた書道に対してむしろそう考えるのですけれどもね。しかしそれは絵画との限界を無茶苦茶にしてしまうことではない。より高次にしてしまうと絵画的になつてしまつたということでよくはないか(注17)。」それに対し、森田は以下のように応ずる。「さつきから出ている文字性の問題ですがね。・・・自分が求めたい形ですね、内面の欲する形を、まるまる徹底的に表現してしまわないで、文字の形をかりて、その文字の形の上に、自分の欲する形への傾きを少し与えるのです。それによつてそれから先まで想像の可能性を見る人に与える。ということになるのだと思います。この単純化といいますか、表現停止といいますか、そういうことが東洋の芸術の特色であり、書芸術の白黑であることの意味でもあり書が文字性の上でなされるものであることの意味でもあると思うのです(注18)。」このように現代書道の文字との断てない関係性を「制約」と捉え文字性の持つ意味ヘの懐疑を露にし、洋の東西を超えた表現形態を求める吉原と、文字性への拘りを最終的には東洋の精神性に高めていこうとする森田の造形哲学の間には崩す事の出来ない壁が立ちはだかっていた。瀬木が考察するように前衛書道と抽象絵画は最終的に1960年代初頭には各々の道を歩み始めることになる(注19)。その後吉原には前衛書道と抽象絵画との関係性ではなく、東洋と抽象絵画との関係― 151 ―

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