鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴ 針生一郎「戦後─国際的な同時代性の成立へ」『別冊みずゑ』46号、1966年7月、56頁。⑵ Atsuo, Imaizumi, “The Background of Modern Japanese painting,” Contemporary Artists in Japan, ヨークのマーサ・ジャクソン画廊で開催されたが、その展覧会について前出のドーア・アシュトンは『ニューヨークタイムズ』紙に「Japan's Gutai Group」と題し展覧会評を書く。そこでアシュトンは、「具体グループの精神には勿論力が漲り活力がある、そして舞台芸術の活動は革命的と言える。写真で見る迫力に溢れたパフォーマンスは、主として三次元での動きを中心とする芸術の中でも、具体の表現方法が並外れて創造性に富むことを示している(筆者訳)」としながら、その反面、「絵画は残念ながら『実験的精神』が十分に前面に押し出されていない(筆者訳)」と評した(注23)。平井章一が考察するように、この具体の平面作品ヘの傾倒こそが最終的に具体の造形意識に内在していた前衛性を摘み取る事になったのである(注24)。欧米において日本の(現代)美術は「日本」という枠組みを超えて理解される事は少ない。また、日本において作家が苦悩した前衛書道と抽象絵画との関係は「日本」という恒久的に不同なフィルターを通す事によって殆ど不可視化する。日本の現代美術は、あくまでも『日本美術』の現代版の「現代『日本美術』」であり、「(西洋)美術」とは境界を定められた特殊な非西洋圏の美術としての言説が成立しているのである。その言説には異様とも思える統一感が漂う。西洋において、西洋美術を美術たるものにする構造─西洋を主体とし、周辺世界をそこに従属させる西洋中心主義的二元論の枠組み─こそが西洋における美術の普遍性成立の構図であり、日本において理解される「普遍」とは異なっている。日本人作家、美術評論家の捉える美術に内在する「普遍性」は一元的であり、そこに対立はない。しかし逆に現代美術の「世界共通言語」を理解する事、西洋から分類体系を導入する事で、同化の可能性が生み出されると信じ込んではいまいか。日英二言語間に存在する「不可視化した溝」から見渡した時、この普遍性の解釈の周辺に日本現代美術の概念の齟齬が輪郭を現わす。そして、この「溝」からのみ検知可能な日本現代美術の「在処」は、純粋に美術史にのみに属するとは言えないだろう。そこでは、国際的な文脈の中で文化政治的な思想や理念が複雑に錯綜している。また、それは西洋と日本との相互理解を深める場だけでは決してないことが分かる。互いに相容れない概念や分類体系が日英二言語間の「不可視化した溝」から浮き彫りになるのは、日本現代美術の不確定な「在処」なのである。― 153 ―

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