所の絵所に仕えた人物である。寛永13年(1636)には日光東照宮御内陣壁画を制作したこともあって、「深秘の絵師」として知られる。天海によって重用され、木村家で初めて法橋に叙され、幕末まで続く木村家の礎を築いた(注7)。東照大権現は、瑞雲が垂れ込め、御簾と幔幕が上がった回廊の際に位置する繧繝縁の上畳に、画面左を向いて座している。幔幕と上畳の間には寺社建築と山水が描かれる。画面下部の回廊では狛犬と獅子が対面して座り、階の下にも霞が湧出している。黒い袍、垂纓を身につけた衣冠束帯姿で、袖は翻り、右手に笏を持ち、左腰に太刀を佩き左手を添える。画面上部には天海による賛「天現三光/養育千象万物/地顕三聖/護持一天四海/御開帳/三国伝灯大僧正天海(花押)」が墨書されている。上記の賛や東照大権現、御簾、上畳、獅子などのモチーフは、「東照大権現像」諸本に概ね共通している。これらのモチーフを共通させるものの、諸本はその描写や形態がわずかに異なるのである。次に德川本の顔貌表現を注視する前に、天海の賛について簡単に補足しておきたい。天海が発給した寺院文書をみると、御家流で書かれた本文と洒脱な天海花押が散見される。天海文書に詳しい宇高良哲氏によれば、江戸幕府が成立する慶長8年(1603)には天海は70歳近くになっており、江戸幕府公用の書体である御家流が一般化される前に、自身の書体が確立していたと考察している(注8)。さらに、天台宗寺院への公文書は天海自筆の必要はなく、御家流の書体の文書は祐筆の手になると考えている。この指摘は「東照大権現像」の賛にも敷衍できることであろう。代筆による天海書状とされる史料(例えば「大僧正天海書状」瑞応院文書(注9))と德川本の署名には類似点を認めることができ、さらにその花押も天海発給文書のそれに近似している。つまり德川本を含む「東照大権現像」諸本の賛は天海自筆ではなく、代筆によって書かれたと考えるべきだろう。代筆による天海書状は晩年になればその傾向が顕著になり、寛永年間には代筆が大半をしめる。「東照大権現像」諸本が制作されたであろう時期を考えると、画賛は代筆とみなすのが妥当であろう。次に、德川本の顔貌表現に注目したい〔図2〕。家康の口元はしっかりと閉じつつも、口角がややあがり、ほうれい線や目尻のしわが頬の肉感を感じさせる。眉間から下がる鼻梁は屈曲して高い鼻を強調し、左の小鼻内側には濃い墨線で鼻孔が表わされる。彫りの深さを示す墨線を、眼球を囲うように楕円形に引き、上瞼には二本の墨線、一本の濃墨線を眼球との際に加える。瞳は三白眼である。左目の目尻には老齢らしい皺を三本きざむ。豊かな脂肪をたくわえた顎は柔らかなカーブを描き、白髪交じりの― 157 ―
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