鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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顎髭を顔の輪郭に沿って短い線で表す。同様に白髪交じりの口髭、眉毛も認められる。額にはしわが三本引かれ、眉の上で山形にカーブしている。大きくふくよかな耳朶は口角の高さまで下がり、そのまま顎につながる。ゆるやかなW形の曲線で引かれた唇の接線と上まぶたや左小鼻の濃墨線が印象的であるが、総体的に肥痩をおさえた謹直な線で描かれ、落ち着いた彩色が施されている。平服の霊夢像にみられるようなギョロリと見開いた目ではなく、むしろ虚ろな表情にみえるほど穏やかな眼差しである。目や鼻、口の配置に違和感はなく、家康本人を目の前に描いたような顔貌表現の優れた描写といえる。このような顔貌表現は、以下に取り上げる「東照大権現像」諸本には見出しがたい。德川本とそれ以外の諸本は、幔幕や上畳、獅子といったモチーフのみならず、詳述した目鼻の形やしわの構成なども共通させているものの、その描写には差異が認められるのである。德川本に類似していると紹介される「東照大権現像」でも、つぶさに見れば、そこには定型化した描写が認められる。換言すれば、德川本が「東照大権現像」の原本またはそれにもっとも近い図像といえるだろう。諸本との比較─聖衆来迎寺本、京都大学総合博物館本次に、木村了琢筆とされる聖衆来迎寺蔵「東照大権現像」(以下、来迎寺本)〔図3〕をみてみたい。来迎寺本は、絹本着色、100.9cm×41.8cmの掛幅で、同寺第十代舜英によって永正16年(1519)から延宝6年(1678)に書かれた寺歴『来迎寺要書』に記録がのこる。寛永14年(1637)、天海は聖衆来迎寺の寺宝を江戸へ運ばせ、寛永寺で開帳し、聖衆来迎寺再興のための資金集めを行った。その後、天海は「絵所良沢法眼」に「東照権現様 御影像」を、狩野探幽に「大僧正様 御寿影」を描かせた。それらは、寛永15年頃に建立された聖衆来迎寺御影堂にて、中央に「恵心僧都木像」、左に「東照権現様尊像」、右に「天海大僧正御寿影」を安置させ、朝暮に祈祷させたという(注10)。了琢は、寛永12年(1635)に法橋に叙されただけであり(注11)、『来迎寺要書』の「法眼」は誤りなのだが、天海の注文により木村了琢が描いたことは間違いないだろう。来迎寺本の主な画面構成は德川本と変わらない。天海の画賛には花押がともない、背景に描かれた鳥居と寺院建築の構成も德川本に近似する。上畳に坐した衣冠束帯姿の家康の姿形、特に顔のしわの構成も共通している。数多ある「東照大権現像」のなかでも德川本と多くの共通点を持つ画像である。― 158 ―

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