鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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深遠な山岳の谷の底から沸き上がるような雲気文、力強く飛翔する神仙図や鹿図は、他錦と較べようのない勢威をみせている。魅力は期待した通りであった。ここには右から左へ新神靈廣成壽萬年の8文字が端正な隷書体で織り込まれている。これをどのように読み解くかで多くの学者が論じた。連続する文字の区切り方で意味が異なってくる。筆者は、織銘を「新の神霊は廣し、壽を成すこと萬年」と読む江上波夫氏の説をとっている(注13)。冒頭の「新」は、前漢王朝を簒奪して建国した王莽の新(A.D.8-23)で、これと共に「建平五年」の刻銘が見いだされる木芯漆塗りの両耳杯が出土しており傍証とされている。建平の年号は前漢末の衷帝の紀年で、その5年に元壽と改元された(B.C.2)。このときすでに莽は実権を掌握していた。錦に織銘が入るのは中国の古代錦に常套であるが、しかし江陵馬山の楚錦にもパジリク出土の戦国錦、長沙馬王堆前漢墓出土錦にも織銘はみられない。それゆえ後漢代に定型化し踏襲される動物雲気文に瑞祥の織銘が入るのは王莽の錦になってからのように私考される。強引な禅譲を成功させた王莽が、その稜威を外夷に誇示するために自らを言祝ぐ語句と永遠不滅の神仙図の錦を、官の織室に直々に下命してつくらせ、そして直接匈奴に贈ったものにちがいない。押しつけがましい尊大な贈品であったのであろう。しかしこの錦をみるや、その荘重な文様と華麗な色彩において、だれしもが驚嘆の声を発したにちがいない。筆者がモノクロム図版にかかわらず、これにこだわった特別な思いはここにあったのかも知れない。『漢書』巻94匈奴伝に、王莽が纂位するや匈奴に五威将軍を派遣して、多くの金帛(錦)を贈与したとある。そして江上氏はこの錦の製作年代を始建国元年(A.D.9)とされている(注14)。王莽の新は、しかし万年の寿をなすことなく15年の統治で滅びてしまう。しかし、織銘と動物雲気文の図様は、以来、漢錦の定型となり晋代にまで続けられる〔図13〕。禽鳥菱形文錦<MR1108>錦は、第6号墓出土の棺の下に敷かれていたウール地に独特な渦巻き模様の刺繍とフエルトのアプリケ模様のある大きなカーペット(261×163cm)の周囲に縁取りとして縫いつけられている〔図14a、b〕。展示室の中央に陳列され、その存在感に圧倒される。アプリケ模様は、大きな角のある偶蹄類の動物を襲う猛禽や有翼の動物で、いわゆるスキト・シベリア文化の動物闘争文である。それらの間に中国の連理文を思わせる樹木を配しているが、全体として顕著に北方民族の文化を表現している。中国錦はカーペットの周囲に仕上げとして半幅にして縫い廻らされている。色は、白、紅、茶褐の3重経からなる第Ⅰ型経錦で、大小様々な片菱文(貝文?)と雄鶏文を織り出― 6 ―

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