鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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似した図像と評価されてきた「東照大権現像」であった。以下では袍の裾を右に流した図像について同様の検討を加えたい。斎藤氏は「右流し」の図像について「神田宗庭系」と想定し、木村派と神田派という「天海が重用した「深秘伝授」の絵師の流派の違い」から、「左流し」や「右流し」の図像の違いを説明した(注14)。このような論調は近年でも踏襲される傾向にあるものの、昨今の藤元裕二氏による神田宗庭研究を鑑みれば、その作者比定は再考を迫られる段階にある(注15)。「右流し」の図像と、藤元氏が提示する神田派の作例を比較すれば、その作風に径庭を認めざるをえないからである。以下では、「右流し」の「東照大権現像」のなかに「左流し」を下敷きにした顔貌表現を認めてみたい。その例として、埼玉県に所在する天台宗の古刹慈光寺が所蔵する「東照大権現像」(以下、慈光寺本)〔図7〕を取り上げる。慈光寺本は絹本着色、77.7㎝×36.8㎝の掛幅で、「天海僧正像」と対幅で伝来している。家康は、繧繝縁の上畳に座し、右手に笏を持ち左腰に太刀を佩いた衣冠束帯姿で描かれる。一見しただけで、「東照大権現像」の定型の図像とわかる。ただ、袍の裾を右に流し、足裏を離している点が德川本などの「左流し」と大きく異なる。一方で、顔貌表現、例えば鼻の形、額や目尻のしわ、小鼻の上から続くほうれい線などを見ると、「左流し」を下敷きした人物表現であることが認められる〔図8〕。唇直下に髭が生えていることを考えると、京大本と近しい。慈光寺本と京大本をさらに比較すると、德川本や来迎寺本では目の周囲に引かれていた一本の弧線が、京大本では上下で分かれ、慈光寺本にいたっては弧線の丸みさえも失われ、まぶたに沿うように引かれていることがわかる。これらの点を考えると、慈光寺本に代表されるような「右流し」の図像は「左流し」の図像に淵源をもつことが推察でき、特に「左流し」の京大本の顔貌表現に祖型をみることが可能ではないだろうか。袍の裾の流れが異なるものの、寛永寺寒松院に伝来した「東照大権現像」と、天台宗の慈光寺に伝来した作例に共通点が認められることは興味深い。慈光寺本のような「右流し」の作例は天台宗寺院に数多く伝わっている。類例を所蔵する埼玉県常光院〔図9、10〕や埼玉県普光寺、川越市立博物館本〔図11、12〕を所蔵していた茨城県西林寺など、いずれも天台宗寺院である。慈光寺本にみられるような顔貌表現は、常光院本や普光寺本、川越市立博物館本いずれにも共通している。先述の斎藤氏は「右流し」を「主に将軍家一門の大名の間に流布」(注16)していたと考察するが、普光寺本が三河武士に出自を持つ旗本高木正則によって慶安4年― 160 ―

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