(1651)に奉納されたことが寺伝(注17)からわかることを考えても、その発注者・受容者を将軍家や大名に限る必要はなく、むしろ広範囲に普及していたと考えるべきだろう。「右流し」の「東照大権現像」諸本は、その画風から絵師のちがいが認められることを考えても、幅広い受容層を想定すべきである。「東照大権現像」の分布と天台宗の東照大権現信仰ここまで取り上げた「東照大権現像」は、来迎寺本をはじめ、その多くが天台宗寺院に伝わった画像であった。このような「東照大権現像」の天台宗寺院への流布の背景に近世の天台宗における東照大権現信仰との関わりが推察されるため、最後に、天海により発給された寺内法度を確認しておきたい。慶長18年(1613)、徳川家康から喜多院つまり天海に宛てた「関東天台宗諸法度」により、関東天台宗が比叡山から独立を宣言し、その本寺が喜多院に定められた(注18)。ここには、幕府の比叡山弱体化策や天海の勢力拡大化策が意図されていたという。そして、同日、関東天台の有力寺院であった慈光寺や慈恩寺、千妙寺などにも寺内法度が発給された。ただ、同時期に統一した寺内法度が出された浄土宗や新義真言宗とは異なり、各寺の法度には多少の異同がある。これは、各地の有力な天台宗寺院のために、天海による本末制度の整備などが難航したことを反映しているようだ(注19)。筆者が注目したいのは、家康没後、天海により天台宗寺院に発給された法度である。天海は元和3年(1617)頃から寺内法度を制定したと考えられ、後年には多数発給している。それらの法度のなかに東照大権現の法楽を明記した法度がいくつか確認できる。法楽について記した最初期の寺内法度に、寛永11年(1634)3月4日の「東叡山末寺法度」があり(注20)、そこには「一、毎月十七日可致 東照宮大権現之御法楽事」と明記されている。天海が関東天台の集権化を進めた寛永寺からその末寺に宛てて、東照大権現を祀った法楽の執行を定めているのである。このような寺内法度は、天海晩年の時期に集中している。寛永18年(1641)の「新光寺寺内法度」(寛永18年3月17日)以後、「喜多院寺内法度」(寛永19年卯月7日)、「吉祥寺寺内法度」(寛永19年仲冬17日)、「円通寺寺内法度」(寛永19年仲冬17日)、「高麗寺寺内法度」(寛永20年正月17日)、「小野逢善寺寺内法度写」(寛永20年3月4日)、「千妙寺法度」(寛永20年3月4日)、「西明寺寺内法度」(寛永20年3月14日)、「天海掟書写」(寛永20年6月)、「善光寺寺内法度写」(寛永20年7月3日)、「長楽寺寺内法度」(寛― 161 ―
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