鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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永20年9月17日)というように、天海晩年に発給された寺内法度のほとんどに東照大権現の法楽に関する一文が記されている。これらをみるかぎり、天台宗内の東照大権現信仰は寛永年間に急速に普及したことがうかがえる。先述の来迎寺本が寛永年間の制作であったことを考えれば、この時期の天台宗内の東照大権現信仰の普及と「東照大権現像」制作は並行した寺院政策であったのだろう。では、東照大権現の法楽とはどのようなもので、「東照大権現像」の画像とどのように関係するか。その一端を示す史料として、江戸時代後期の史料ではあるが、慈光寺の「慈光寺実録」を紹介したい。慈光寺の縁起を記した「慈光寺実録」には数種類の同名史料が確認されている(注21)。そのなかに、99世義仙が文政年間から執筆をはじめ、天保6年(1835)に書き終えたと思われる「天台別院都幾山慈光寺実録」(慈光寺文書100、以下、義仙本)があり、ここに東照大権現の法楽について簡単に記しているので、以下に引用する。東照宮大権現御真影 一幅 天海慈眼大師尊像 一幅 茶器一具 右者毎歳四月十七日於日吉神社誦講式後両宗 法華ヲ読誦シ備法楽ニ東照宮山王宮ニ祭之 備物如常この短文から慈光寺では、毎年4月17日に、山の麓の日吉神社で「東照宮大権現御真影」と「天海慈眼大師尊像」の画像を一幅ずつ掛け、講式の後、法華経を読誦したことが判る。ここに書かれた2幅は、現在、慈光寺に伝存している「東照大権現像」と「天海僧正像」の対幅に該当すると思われる。この記録は、近世の天台宗で東照大権現を祀る法楽が執りおこなわれ、そして「東照大権現像」の画像をその法楽に用いたことを明らかにする。このような法楽がどの程度まで普及していたのか検討の余地はあるが、「東照大権現像」が東照大権現の法楽の普及と関わりあることは類推できるだろう。おわりにこれまで考察してきたとおり、江戸時代前期に描かれた「東照大権現像」は「左流し」の德川本が最初期作に位置付けられ、それをもとに来迎寺本や京大本が描かれた又― 162 ―

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