⑯新図様の毘沙門天の受容と展開─地天・二鬼の属性をめぐって─研 究 者:日本学術振興会 特別研究員(PD) 高 橋 早紀子はじめに九世紀の日本に新たに請来された毘沙門天は、鳥の宝冠を被り裾長の甲や海老籠手をつけた西域的甲制で地天・二鬼の上に直立するといった特殊な像容であった(注1)。こうした特徴のうち、日本では地天に支えられることがこの系統の毘沙門天の第一の特徴とされ、地天に支えられた非西域的甲制の毘沙門天が主流となっていった(注2)。一方、中国では西域的甲制がこの系統の毘沙門天を規定する第一の特徴とされ、地天に支えられた唐甲制の毘沙門天はほとんど確認されていない(注3)。つまり、この系統の毘沙門天は、中国では西域的甲制を第一の特徴としたのに対して、日本では地天を第一の特徴として展開していったと考えられるのである。中国と日本におけるこうした相違については先学の指摘するところであるが、日本でこの系統の毘沙門天が地天に支えられた毘沙門天として展開した背景については未だ十分な考察がなされていない。そこで本稿は、九世紀の日本における新図様の毘沙門天の受容の様相について検討し、毘沙門天脚下の地天・二鬼の属性を追究することにより、この系統の毘沙門天が日本で地天に支えられた毘沙門天として展開した背景の一端を明らかにしようと試みるものである。具体的には、日本における新図様の受容が地天・二鬼を中心とした部分的受容であったことを指摘し、この地天・二鬼がガナパティを主とする善きヴィナーヤカとして理解されることを論じる。そして、地天に支えられた毘沙門天が境界守護を目的として特定地域に集中的に制作された背景に、このガナパティとしての地天の性格が深く関わっていた可能性を示したいと思う。一、新図様の毘沙門天の受容本章では、九世紀の日本における新図様の毘沙門天の受容について考察し、その受容が地天・二鬼を中心とした部分的受容であったことを論じる。九世紀の日本に請来された新図様の毘沙門天として、『別尊雑記』所収の毘沙門天図像〔図1〕や醍醐寺蔵《四種護摩本尊及眷属図像》中の毘沙門天図像〔図2〕、東寺宝物館毘沙門天像〔図3〕が知られている。『別尊雑記』所収の毘沙門天図像は最澄請来の図様を伝えるものとされるが、毘沙門天の甲形式が平安時代後期の仏画にお― 168 ―
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