鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
180/550

ける類型的なものであることや地天が日本の女神像と共通する姿の全身像であることなどから、唐本画像の図様を忠実に反映したものとは考えられないことが論じられている(注4)。一方、醍醐寺蔵《四種護摩本尊及眷属図像》は空海の甥である智泉が弘仁十二年(821)に描いた図像を天養二年(1145)に恵什が転写し、さらにそれを建暦三年(1213)に宗実が再転写したもので、転写を経てはいるものの唐本画像の図様をよく留めており、その原本は空海の録外請来本に遡るとみられている。東寺宝物館毘沙門天像は用材や技法の点から中国製とされるが、その請来者や請来時期を特定することは難しい(注5)。こうした新図様の毘沙門天の影響を受けて九世紀の日本で制作されたものとして、東寺講堂多聞天像〔図4〕や石山寺毘沙門天像〔図5〕、観世音寺毘沙門天像、西大寺十二天画像中の毘沙門天画像といった作例が現存する。このうち、新図様の受容について考察する上で重要なのが、一般に承和六年(839)の開眼とされる東寺講堂諸像中の多聞天像である(注6)。というのも、東寺講堂多聞天像は地天・二鬼を伴った非西域的甲制の毘沙門天の嚆矢と位置づけられ、そこに新図様の部分的受容の様相を窺うことができるからである。東寺講堂諸像は金剛界五仏・五菩薩・五大明王・六天(梵天・帝釈天・四天王)の二十一尊からなり、その諸尊構成は空海の構想に基づくと考えられている。東寺講堂諸像中の四天王は阿地瞿多訳『陀羅尼集経』巻第十一に説かれる像容を基本とし、唐甲制を単純化した日本式の着甲法をとる(注7)。北方多聞天像もこうした奈良時代以来の像容や甲制の毘沙門天であるが、その脚下には地天・二鬼という新図様の要素が認められる。注目すべきは、こうした新図様の影響が毘沙門天脚下の地天・二鬼に限られ、毘沙門天本体には認められない点である。このことは、奈良時代以来の毘沙門天に地天・二鬼という新要素がとり入れられて東寺講堂多聞天像の図様が創出されたことを示していよう。つまり、空海は新たに請来した新図様の毘沙門天の特徴のうち、地天・二鬼という要素に特別な意味を認め、それを『陀羅尼集経』所説の多聞天の脚下にとり入れたと考えられるのである。このように九世紀の日本における新図様の受容が地天・二鬼を中心とした部分的受容であったとすれば、日本でこの系統の毘沙門天が地天に支えられた毘沙門天として展開した背景を理解する上で新図様における地天・二鬼の意味が改めて問題となろう。二、善きヴィナーヤカとしての地天・二鬼九世紀の日本における新図様の受容の様相を踏まえ、本章では毘沙門天脚下の地― 169 ―

元のページ  ../index.html#180

このブックを見る