鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴唐時代および平安時代前期の作例を「兜跋」毘沙門天と称することには問題があるため、本稿では「兜跋」毘沙門天の名称を用いない。岡田健「東寺毘沙門天像─羅城門安置説と造立年代に関する考察─(上)」(『美術研究』三七〇、一九九八年)参照。三、地天に支えられた毘沙門天の展開 ─結びにかえて─本稿では、新図様の毘沙門天の受容という視点から東寺講堂多聞天像の意義を再評価し、九世紀の日本における新図様の受容が地天・二鬼を中心とした部分的受容であったことを論じた。その上で、新図様における地天が「歓喜天」と説かれることに注目し、経軌および図様の検討から、毘沙門天脚下の地天・二鬼がガナパティを主とする善きヴィナーヤカとして理解されることを示した。つまり、これまで大地女神・堅牢地神・吉祥天とみなされてきた地天に、ヴィナーヤカ王のガナパティとしての性格があった可能性を提示したのである。このことを踏まえ、日本でこの系統の毘沙門天が地天を第一の特徴として展開した理由について改めて考察し、結びとしたい。地天に支えられた毘沙門天については、石窟入口・関津・国境といった境界付近に集中的に遺存することから、守門神・辟邪神・サイノ神といった境界守護と関わる性格が指摘されてきた(注23)。こうした境界守護的性格が地天に支えられた毘沙門天に特有のものであるとすれば、それは毘沙門天脚下の地天と関わる性格であったといえよう。通常の邪鬼を踏む毘沙門天がヴィナーヤカを撃退するのに対し、地天に支えられた毘沙門天にはヴィナーヤカを教化する力があったと考えられる。つまり、毘沙門天脚下の地天がヴィナーヤカに歓喜心を生じて障礙を作らなくさせる除障礙神のガナパティとしての性格を有していたために、地天に支えられた毘沙門天が境界守護を目的として特定地域に集中的に制作されたと考えられるのである。九世紀に請来された新図様の毘沙門天が日本で地天に支えられた毘沙門天として展開していった背景には、こうしたガナパティとしての地天の性格が深く関わっていたのではないだろうか。⑵猪川和子「地天に支えられた毘沙門天彫像」(猪川和子『日本古彫刻史論』〔講談社、一九七五年〕、初出は一九六三年)。⑶岡田健「東寺毘沙門天像─羅城門安置説と造立年代に関する考察─(下)」(『美術研究』三七一、一九九九年)。⑷奥健夫「京都・清凉寺木造毘沙門天坐像」(『仏教芸術』三〇五、二〇〇九年)、長坂一郎「地天女の変容─兜跋毘沙門天信仰についての一試考─」(津田徹英編『図像学Ⅰ─イメージの成立と伝承(密教・垂迹)〈仏教美術論集二〉』〔竹林舎、二〇一二年〕)。⑸神田雅章「城門楼上の毘沙門天について─東寺兜跋毘沙門天立像の羅城門安置をめぐって― 174 ―

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