鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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境界守護的性格に関する先行研究は、長坂一郎前掲論文(注⑷参照)に整理されている。─」(『美術史学』一六、一九九四年)、岡田健前掲論文(注⑴、⑶参照)、松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』三七〇、一九九八年)等。⑹東寺講堂多聞天像の保存状態については、教王護国寺編『教王護国寺所蔵 国宝(美術工芸品)木造講堂諸尊二十軀修理報告書』(教王護国寺、二〇〇〇年)参照。⑺松田誠一郎「菩薩像、神将像の意匠形式の展開」(『日本美術全集 第四巻 東大寺と平城京奈良の建築・彫刻』〔講談社、一九九〇年〕)、奥健夫「六波羅蜜寺四天王像について」(『MUSEUM』五五九、一九九九年)。⑻源豊宗「兜跋毘沙門天像の起源」(『仏教美術』一五、一九三〇年)、長部和雄『唐代密教史雑考』(神戸商科大学学術研究会、一九七一年)。⑼『大正新修大蔵経』五五・一〇六三a、No.2161。⑽『大正新修大蔵経』二一・二一九b、No.1246。⑾彌永信美「「鼠毛色」の袋の謎─大黒の袋1」・「兜跋毘沙門の神話と図像」・「ガネーシャの太鼓腹─大黒の袋2」(彌永信美『大黒天変相 仏教神話学 Ⅰ』〔法蔵館、二〇〇二年〕)、彌永信美「象頭神の歓喜─歓喜天の起源と観音/軍荼利の関係」(彌永信美『観音変容譚仏教神話学 Ⅱ』〔法蔵館、二〇〇二年〕)等。⑿『大正新修大蔵経』二一・三二二b、No.1273。⒀松本文三郎「兜跋毘沙門攷」(『東方学報 京都』一〇―一、一九三九年)、松本榮一「兜跋毘沙門天図」(松本榮一『燉煌画の研究 図像編』〔同朋舎、一九八五年〕)、宮治昭「インドの地天の図像とその周辺」(宮治昭『インド仏教美術史論』〔中央公論美術出版、二〇一〇年〕、初出は一九九三年)、田辺勝美「ホータンの毘沙門天像」(田辺勝美『毘沙門天像の起源』〔山喜房仏書林、二〇〇六年〕)。⒁松本文三郎前掲論文(注⒀参照)。⒂「尼藍婆」・「毘藍婆」という名称については、『法華経』「陀羅尼品」所説の十羅刹女中の「藍婆」・「毘藍婆」との関連を示唆する見解がある。たなかしげひさ「鳥冠を頂く地天毘沙門天の年代と系統」(『仏教芸術』六三、一九六六年)、神田雅章前掲論文(注⑸参照)。⒃夾江千仏崖第一〇七号龕や資中重龍山第八八・一〇六号龕の二鬼にも葉状に広がり長く垂れた耳が確認されるという。金香淑「中国四川省における毘沙門天図像の概観─資料の紹介─」(『名古屋大学古川総合研究資料館報告』一二、一九九六年)。⒄『大正新修大蔵経』一八・八五六c、No.901。⒅長坂一郎「八幡神・女神像の手勢と坐法についての若干の覚書き─京都府岩滝町・板列八幡神社・女神坐像をてがかりに」(『東北芸術工科大学紀要』一〇、二〇〇三年)。⒆中国の作例には毘沙門天の脚を支える手勢の尼藍婆・毘藍婆が確認され、ヴィシュヴァルーパ・ヴィシュヌの脚を支える二龍王との図像上の類似が注目されている。宮治昭前掲論文(注⒀参照)等、参照。⒇神田雅章前掲論文(注⑸参照)。 頼富本宏「金剛薩埵図像覚え書き(上)」(『密教図像』一、一九八二年)。 渡邊照宏・宮坂宥勝訳注『日本古典文学大系七一 三教指帰 性霊集』(岩波書店、一九六五年)。― 175 ―

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