『漢書』巻94匈奴伝に、甘露3年(B.C.51)正月、呼韓邪単于が願朝して甘泉宮に参上したとき、漢朝廷はこの礼にあつく報いた。迎えに車騎都尉韓昌を出し、7郡の通過に2千騎を配置してその道中の安全を保証した。そして「冠帯衣装、黄金の璽、玉具剣、(略)馬十五匹、黄金二十斤、銭二十萬、衣被七十七襲、錦繍綺縠雑帛八千匹、絮六千斤」を下賜した。その翌年再度入朝して「衣一百襲、錦帛九千匹、絮八千斤」を賜っている。呼韓邪単于死去の後にも単于の入朝は行われた。河平4年(B.C.25)正月に「加賜錦繍繒二萬匹、絮二萬斤」とある。さらに元寿2年(B.C.1)に「加賜錦繍繒三萬匹、絮三萬斤」とある。同様の記述は多々みられる。このように巨万の量で貯留された中国絹は、それを希求する西方商人(胡商)に転売されたであろうことは容易に想像される。緯錦技法の西方成立を促したことであろう。遺物にみる匈奴の美意識匈奴という、このあまり好感のもてない名称に反して、出土品からみる匈奴の豪奢な好みは我々の先入観を覆すかにみえる。とりわけ特異な光彩を放つ双禽山岳樹木文錦は、匈奴みずからが中国に発注して中国に織り出させたのではないかとさえ考えさせた。中国錦に、太々とした羊毛糸を用いて渦巻き模様を縫いつけるそれは、漢人の感覚ではない。それは匈奴独自の美意識であり、その自信を表現するもののように思われた。補・パルミラ関税法碑文1881年、ロシアのラザロフがパルミラで発見したA.D.137年の「パルミラ関税法」の石碑については、はやくから関西学院大学の小玉新次郎名誉教授(故人)から教示を得ていた〔図18〕(注18)。ここで詳述すべきであるが紙面に余裕がないので筆者に必要なことのみ述べる。関税法に絹に関する項目がない。それをどのように理解すべきか。それは多分にローマがパルミラから無関税で中国絹を得ようとしていたからではないかと。結語短時日の調査ではあったが思わぬ発見もあり成果は予想以上であった。それはすでに総括されている未発表原稿に活かされるはずである。ちかくエルミタージュ美術館所蔵染織品のカタログが出版されるという。大いに期待される。― 8 ―
元のページ ../index.html#19