鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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本作の制作年は1629-30年頃としてよい。ここでベッローリが主題を誤って「聖母被昇天」としたのは、作品が当時パリに渡っていたからだろう。フェリビアンはそれを以下のように訂正した。ちょうどその頃、彼[プッサン]はもう1点の大型絵画を描いた。その作品には、スペインのサラゴサの街で、聖ヤコブの許に聖母が現れた様子が表されている。[聖母の出現]以来、サラゴサでは彼女を称える聖堂が建造され、柱の聖母と呼ばれる。この作品はフランドルに送られたが、現在では国王の収集室にある。(注6)これまで注目されたことがないものの、本書初版(パリ、1685年)の欄外には2つの注記が見られる。1点目は「ちょうどその頃」について「1630年頃(Vers lʼan 1630.)」と補足される。2点目は「スペインのサラゴサの街」に関して、「カエサラウグスタ。デュランティ、教会の典礼1巻(Cesar-Augusta. Durant. De Ritib. Ecclesl. I)」との注記が見られるのである。これはサラゴサが旧称カエサラウグスタであること、本主題に関する記述がジャン=エティエンヌ・デュランティ(1534-89年)著『カトリック教会の典礼に関する三書』(リヨン、1675年)第1巻に見られることを示す。以下、この書の該当箇所を引用する。カエサラウグスタの街で聖ヤコブの前に姿を現す聖母マリア。当地には聖母のための最初の聖堂が建てられ、一般にスペイン語で「柱の聖母」と呼ばれる。(注7)国王の許で作品を見たフェリビアンが、専門書を参照し主題の同定に努めたことが窺われよう。本作品は王室所有になる前には、リシュリュー公爵(1629-1715年)の邸宅にあった。1665年10月13日、ベルニーニが本邸で作品を目にしている(注8)。では、作品の観察に移ろう。画面左側に立つ柱の上に厚い雲がかかり、その上に聖母が腰かける。左脇に幼子を抱えた彼女は、人差し指で画面右手側を指し、背後からの風によって白いヴェールが前方にたなびく。足元には、右手を胸に当て聖母の方を見つめる聖ヤコブがいる。手前の弟子は両膝と両肘を地面に付き、顔を伏して礼拝する。ヤコブの背後には驚嘆する三人の弟子が控え、右奥にも二人の弟子が描かれる。また柱の陰では、別の弟子が手を広げながら聖母を仰ぎ見る。全体として、暗闇のな― 180 ―

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