たい。その根拠となるのが、前章で検証した図像と、1620年代末のスペインの守護聖人を巡る論争である。以下、論争の経緯を説明しよう(注27)。中世以来、大ヤコブはスペインの守護聖人として信仰を集めてきた。9世紀以降、イスラム教徒との戦いの場にも大ヤコブが出現したと言われ、勇ましい騎士の姿でも造形化される〔図12〕(注28)。だが、彼のスペイン伝道を疑問視する意見も徐々に増えた。それを払拭すべく刊行されたのが、前章で引用したカステジャ・フェレルの『イエス・キリストの使徒でゼベダイの子、スペインの守護聖人かつ総司令官である聖ヤコブの物語』である。その一方で、1622年にアビラの聖女テレサ(1515-52年)が列聖されると、1626年春、フェリペ4世は寵臣オリバレスと共に、彼女をスペインの共同守護聖人として推挙する運動を展開した。彼らにはテレサの求心力でスペインをまとめようとする意図があったのである。1627年6月、ウルバヌス8世は国王の要望を認める小勅書を出した。アビラやサラマンカ等がテレサ支持を表明したのに対し、サンティアゴ・デ・コンポステーラを筆頭に多くの都市が猛反発し、聖母こそヤコブの共同守護聖人であると主張した。論争を好機と捉えた教皇は、1629年秋の会議で、上述の小勅書の無効化を決定する。彼は個人的にはテレサを信仰し、聖ヤコブのスペイン伝道への疑義も承知の上で、ヤコブをスペイン唯一の守護聖人としたのである。教皇の権威を脅かすスペインの影響力を減じるための政治的判断であった。他方、プッサンは、1626-28年に教皇の甥フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿のために《ゲルマニクスの死》(ミネアポリス美術研究所)を制作していた。1629年には枢機卿の推挙を得て《聖エラスムスの殉教》を完成させ、その直後に《聖母の出現》を描く。つまり本作品は、正に上述の論争が激化した1629-30年に制作されたのである。この作品が論争との関わりの中で注文されたか否かは、目下不明である。ただ、少なくともここに描かれた聖ヤコブは、教皇が支持した聖人と理解される。すなわち本作品は、スペインに縁のある注文ではあるものの、当時プッサンがバルベリーニ家周辺の人々から庇護を受けていた事実とは矛盾しないと言えるのではないだろうか。今回、注文主の特定は叶わなかったが、今後さらにヤコブ擁護派の人的交流を精査することで、注文状況を探る手掛かりが見出されるかもしれない。5.結び以上、プッサンが典拠と先例を踏まえて作品を構想していたことが確認できた。特に背景を覆う暗い色調に関して、従来は明確な説明がなされなかったもの、伝説の通― 184 ―
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