雲堂手の文様は、雲・楼閣・人物に大きな特徴があり、特に②初期雲堂手には、先行する元青花の文様構成に類似する点が多い。壺に人物文を描く場合、その背景として場面の転換を図るかのように使われているのが雲や楼閣図である。筆者は、元青花から明代の青花へとつながる変遷が、主として民窯の器に受け継がれていることに注目する。2、雲堂手研究史最初に雲堂手の一群に着目し、様式的な考察を行ったのは藤岡了一氏である。1960年代に、江戸時代の茶会記にみられる「雲堂手」という表記から、明代の青花に注目した。具体的には、「明初の青花の中に官窯の優品とは別に無名民窯の一群がかなり多量に見いだされる」ことから、「一連の作例で最も著しいのは人物図である」として、画巻風な図柄がすでに元青花にあること、それが明初の青花の中に持ち込まれ、民窯の器に主として受け継がれていることを指摘した(注2)。そして、構図上ほぼ例外なく現れる雲形について、既に元青花の中に特殊な人物を示すために描かれている例を挙げ、それが明初になると背景の大部分を大きな雲形が占めるようになり、特に一場面の区切りにこの雲形と建築物を巧みに利用するようになることにも言及した。したがって、日本の茶人が珍重した雲堂手の茶碗や香炉は、これらの図柄がのちに簡略化したものであるとして、初期雲堂手と区別している。また、初期雲堂手を明初民窯青花の中で最も重要な構成要素と見ている(注3)。1990年代になると、中沢富士雄氏によって「正統から天順年間頃に焼造されたと考えられる、日本で「雲堂手」もしくは「雲屋台」とよばれる一群の作品」、「人物文を描くものが多く、その背景として、またあたかも場面の転換を図るかのように、雲や建物が描かれるところから名付けられたものである」などさらに踏み込んだ解釈がなされた(注4)。ただし、日本でいつ頃から誰によって呼ばれるようになったのかという言及はない。雲堂手の文様構成については、「壺や梅瓶形を主とし、元青花の文様構成に倣い、胴に大きく主文様をとり、その上下に唐草文などの従文様が描かれる。人物文の題材は歴史物語から取られているようで、これも元青花の人物文に通ずるものがある。」(注5)と、概ね上述の藤岡論にそっているが、一連の雲堂手作品に対する時代設定は、15世紀中頃から16世紀とする。また、これらの雲堂手作品の中に、端正な筆致のものが見られることに注目し、明代初期から中期にかけて行われていた官窯への民窯陶工の無償労働が、結果的に民窯の向上に繋がったとする説を裏付けている。― 191 ―
元のページ ../index.html#202