である。「王昭君出塞図」〔図4部分〕などにみられる人物の表情、衣文や動植物などの筆法には唐宋以来の絵画における写実が規範としてあったことが指摘されている(注11)。第3は、第2の要素を推し進めた結果といえるが、様々な筆法がみられることである。描かれた図様をみると、先を尖らせた筆に青料を多く含み、鋭い線描やにじみやぼかしなどの点描、濃淡といったまさに絵画技法を駆使した表現が多い。以上のことから、画院画家の何らかの関わりも考えられる。元代に入り画院が一部解散となり、民間に回帰した画工に対する需要があったことも推測される。元青花によって確立された様式は、その後の陶磁器に受け継がれていくが、とりわけ初期雲堂手にはそれが顕著に表れているのが特徴である。4、明代・正統、景泰、天順期(15世紀)の景徳鎮窯青花は元代後半に最盛期を迎え、続く明代でも生産は続いた。官窯も設置されたが、生産が安定するのは永楽年間(1403~1424)、宣徳年間(1426~1435)になってからである。しかし続く正統、景泰、天順年間の約30年間は明代陶磁史上「暗黒期」「空白期」と呼ばれる時代となった(注12)。正統から天順年間にかけて政情不安などが引き金となり、景徳鎮の生産体制は混乱し、特に官窯の生産が一時休止するなどの低調となったのである。正統皇帝は在位14年(1436~1449)、景泰皇帝は在位8年(1450~1457)、天順皇帝は在位8年(1457~1464)で、各皇帝の在位期間が短く、動乱が続く不安定な時期であった。実際、景徳鎮では景泰元年(1450年)、窯場一帯が飢饉となり、その後天順年間に至るまで数度の大飢饉に見舞われ、陶磁生産は衰退、停止の危機に陥ったといわれている。この他、「景泰藍」と呼ばれる七宝製品の制作のために、高価な顔料を大量に用いたため、材料が枯渇したことも陶磁器生産衰退の遠因ともされ、これらの原因が積み重なり、特に景泰年間の磁器生産は三朝中最も落ち込んだ時期が「空白期」と位置付けられている。しかしながら、当時の人々の生活必需品である食器類は民窯で生産が続けられたことが明らかになっている。そうしたなか、歴代皇帝の実録から、正統元年(1436)9月景徳鎮民窯に磁器5万余件の生産を要請した記録があることから、当時の民窯では引き続き陶磁生産が行われていたことが分かってきている(注13)。そして天順初頭に宣徳期以来の官窯焼造が回復したが、この時すでに民窯の生産が大幅に増加しており、民窯で官窯製品を補うこともしていたようだ。近年の発掘成果が以上の説を裏付けるものとなっている。青花の出土例をみると、1950年代には江蘇省牛首山弘覚寺塔頭から正統7年(1442)の青花磁器4件が出土し― 193 ―
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