1 起動する作品世界――理由なき老巡礼殺し『都新聞』に連載が開始された『大菩薩峠』に、剣客机龍之助による老巡礼殺しの場面が現れたのは、大正2年(1913)9月14日に掲載された第三回においてだった。⑲『大菩薩峠』における「ゼロ」の図像学─挿絵と「白紙」をつなぐもの─研 究 者:京都造形芸術大学 非常勤講師 野 口 良 平はじめに─問題の所在中里介山による未完の長編小説『大菩薩峠』は、大正2年(1913)に『都新聞』に連載が開始されてから、昭和16年(1941)に書き下ろされた「椰子林の巻」にいたるまで、二八年間書きつがれ、近現代日本精神史に大きな足跡を残した作品である。『大菩薩峠』に対しては、連載当初より読者からの熱い関心が寄せられていたが、春秋社による普及版の刊行(1921)や、発行部数の多い『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』への発表媒体の移行(1925)を通じた読者層の拡大は、「大衆小説」の嚆矢としての評価像をジャーナリズムにもたらす背景となった。この評価像は、沢田正二郎による舞台化(1920年が最初)、大河内伝次郎主演での映画化(1935-36、日活)、さらには新聞紙上をかざった挿絵の影響もあずかって、さらに広く浸透することになったが、作者介山は決してこれを受けいれることなく、生涯にわたる抵抗を試みつづけた。このすれ違いの意味を顧慮せずに、『大菩薩峠』について考えることは困難である。井川洗厓、石井鶴三、小川芋銭、小杉未醒、金森観陽、伊東深水、北蓮蔵らにより試みられた『大菩薩峠』の口絵や挿絵の魅力と、その文化史的意義については語られることが多い。介山自身、事前に資料を示したり相当数回分の原稿を届けたりするなど、挿絵画家への協力を惜しまなかったし、作品構想過程で絵入りの創作ノート『人情風俗』(1913)を執筆し、のちには挿絵を手がけるほどの「絵心」(介山自身の表現)の持ち主でもあった。にもかかわらず介山は、同時に挿絵忌避とでもいうほかない身ぶりをも示し、その身ぶりの延長線上で、自作に寄せられた挿絵への違和感を表明した。その端的な現れが、昭和9年(1934)に生じた石井鶴三との「紛争」にほかならない。介山が示した両義的態度を私たちはどう理解したらよいのだろうか。本論では、『大菩薩峠』における「図像的なもの」の位相について考察を試みてみたい。― 201 ―
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