鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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う作中人物たちのすれ違いが描かれていたが、物語の中盤で、肝心の龍之助が「お雪ちゃん」という─老巡礼の生まれ変わりとも思われる(注1)─女の子に導かれて、信州の白骨温泉に引き籠り、炬燵に入って動かなくなってしまう。作品世界における地殻変動の総体を追尋する指標の一つは、龍之助の外貌の変容である。『都新聞』での連載稿は、介山の弟幸作に開かせていた書店・玉流堂からの最初の単行本化に際し、大幅に改稿され、現行版にいたる(注2)。この事実をふまえたうえで、1941年にいたる『大菩薩峠』の執筆過程を、四つの中断・休筆期間の存在をもとに五期に区分することができるが、ここで注目されるのは、これらの中断・休筆期間のいずれもが、龍之助の「変貌」をもたらす契機になっていることである。『都新聞』での連載開始(1913・9・12)から、「龍神」の終結(1915・7・23)までの第一期では、龍之助は黒の着流しに深編笠というスタイルで、「面は蒼白い」として描かれていたが、二年三か月の中断を経て再出発した第二期(1917・10・25-1921・10・17)では、盲目で、黒の覆面を被っているか、尺八をもつ虚無僧姿が多くなる。それが、三年三か月の中断を経て『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に発表媒体を変えて始動した第三期(1925・1・6-1930・7)では、塩尻近くの「いのじが原」での剣戟を最後に、剣をふるう場面があまり描かれなくなる。そして、白骨の湯に龍之助が籠るようになると、作品に夢のような気配がたちこめ、龍之助は一個の気配と化しはじめる。さらに、九か月の中断後の第四期(1931・4・15-1935・8・16)では、しだいに別世界の住人のような感触をただよわせる存在になり、「凄い程の美人の年増の奥様といった魅力」が描かれるようになる(注3)。お雪ちゃんの夢のなかで、顔の火傷ゆえに龍之助同様覆面姿となり、龍之助に惹かれる「暴女王」お銀様によって胆吹山の洞窟に幽閉されている場面の描写には、動物性が剥き出しになった鬼気と、透徹した清明さがしるしづけられている。最後に、第五期(1938・2-1941・8)では、人間としての形状が壊れ、異形の存在を現したという印象を醸し出し、大原寂光院の「若い老尼」と「忍踊り」に興じる場面では、「見れば、今までのように、コケ嚇しの覆面や、白衣はかなぐり捨てて、刀もなく、脇差もないかわりに、さっぱりした竪縞の袷の筋目も正しいのを一着に及んで、帯も博多の角なのをキュッと締め込み、刀もなく、脇差もない代りに、手には時ならぬ団扇を携えて」という描写が与えられる。これらのなかでも、<剣>の龍之助から<こたつ>の龍之助への変貌は、前半と後半を画する指標としてとりわけ重要である。理由なき老巡礼殺しによって世界を起動させた龍之助が、しだいに作中人物それぞれが抱える無明の象徴としての位置を占め― 203 ―

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