鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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3 挿絵に抗する介山―図像と「白紙」のあいだ(1)昭和9年(1934)7月、「無明の巻」(1925)から「Oceanの巻」(1928)まで『大阪毎日』『東京日日』紙上で『大菩薩峠』の挿絵を担当していた石井鶴三(1887-1973)と介山のあいだに「紛争」が生じた。この「紛争」は、表面的には挿絵の著作権の帰趨をめぐる形をとっていたが、龍之助の「変貌」とその解釈に絡む点で、精神史的にも重要な意義を伴うものだった。『大菩薩峠』の新聞連載には、挿絵がつきものだった。前作『高野の義人』に引き続き挿絵を担当した井川洗厓(1876-1961)は、都新聞社での同僚でもあり、井川と介山の親交はその後も続いた(注5)。『小野の小町』(1922、『婦人之友』)ですでにその挿絵を担当していた石井鶴三とも、ひとまずは協力関係を築いていた。るようになり、白骨籠り以後は、世界に遍在する気配として作品世界の根本動因と化す。折原脩三が「ゼロ」化とよぶこの過程とともに、仇討物のプロットは解体する(注4)。そして作品世界そのものも、「自己を希薄化する主人公=作者」という境位を示すにいたるのである。だがそもそも介山にとっては、挿絵の併載自体が不満の対象だった。介山はのちに、「本来、私の純粋の希望から云えば、創作に挿絵を入れてもらうことは好みません」と述べたうえで、挿絵なしでも読者に感銘を与えた漱石、紅葉の小説の例をあげつつ、挿絵の存在はあくまでも新聞社の営業活動の一環であると述べている。くわえて介山には、自作が勃興期の「大衆小説」と同一視され、フラットに扱われることへの憤懣があった。挿絵の併載は、異例の作品像の開示に投身していた介山にとって、プロクロステスの寝台上で手足を切断されるような経験として現れていた。石井の描く龍之助像〔図2〕が、「とんがって貧相で潤いが無く、ひからびてしまっている」と感じられ、これにあきたらなかった介山は、その意を石井に伝える際に、「残忍性」を湛えたユーゴーの作中の挿絵〔図3〕、伎楽神で、酒肉を食らわず香だけを食し、窃視の好色家でもある仏教の健ガン達ダルヴァ婆の像〔図4〕への参照をもとめたが、満足は得られなかった。そこで白骨籠り以後覆面姿の場面をふやしたところ、ようやく好結果を得たと感じた(注6)〔図5〕。この姿は、大佛次郎『鞍馬天狗』に代表される正義の味方=主人公の覆面姿の原型となる。清原康正が分析するように、時代小説における主人公の覆面は、自己顕示への羞恥の表現としての側面をもつが(注7)、介山はすでにさらに徹底し、正義も不義もなく、自己を希薄化して気配と化す主人公の表徴としてこれを用いていたのである〔図6〕。覆面への関心は、作中の「日本覆― 204 ―

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