鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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面史」の記述(「恐山の巻」、1934-1935)にまでおよぶ。石井が挿絵を担当しはじめた「無明の巻」以後、絵師田山白雲(田崎草雲がモデル)が登場し、作中美術論が展開されるようになるが、そこにも挿絵に対する介山の抵抗も顔を出している。挿絵は小説への読みの一部分であり、作品像から独立したものではありえないと考えていた介山に対し、石井は小説と挿絵を義太夫における太夫と三味線の関係になぞらえ、挿絵は小説の及ばぬ点を補い、引き立てるものとみなしていた。石井のなかに、美術アカデミズムに対する挿絵の地位向上をはかる意図があったことは疑えないが、その石井が、『大菩薩峠』を「大衆小説」とみる予断や見くびりから自由だったとはいえない。二人のすれ違いが「紛争」に発展するのは、むしろ必然だった。昭和9年(1934)7月、介山への挨拶なしに『石井鶴三挿繪集』(光大社)が刊行され、そこに収録された新妻莞「序に代へて」、木村荘八「石井鶴三の挿絵」、中島謙吉「本挿絵集の出版に際して」に、『大菩薩峠』の作品像に対する無理解への居直りを感じた介山は、これに猛烈に抗議した。介山は、自身が刊行する雑誌『隣人之友』に、「大菩薩峠著者と訪問者の対話」、「創作と挿絵の問題」、「大菩薩峠の著作侵害─『石井鶴三挿繪集 第一巻』の再検討」(これらは同年12月に隣人之友社より刊行された『創作及び著作権とは何ぞや』に収録)を寄稿し、著作権侵害のかどで東京地裁に告訴を行うのみならず、翌年5月に創刊した『中里介山純粋箇人雑誌 峠』の第一号に、「背景画家オツルナーの心境」を掲載した。ヴィクトル・ユーゴーの創作劇「エルニナ」(1830)をめぐってロマン派と古典派が対立した「エルニナ事件」に取材したこの短編小説の後半部は、自身をユーゴーに、石井鶴三を背景画家「オツルナー」に、木村荘八を「ショッパー」に擬した完全なフィクションだったが、作中語られるオツルナーの心境には、この「紛争」の本質に対する介山自身の解釈が直截に示されていた。…ユーゴーに対しては、以前より平かならざるものがあった。第一彼が年少くして名を成したが、何等経歴のあるものではない。年齢とても自分より幾つか年下であるのに先輩面をしたり、指導面をしたりして、自分を単なる背景画家として軽くあしらっているのが内心癪に障っている。自分は今迄の芝居の書割描きとは違うぞ、正式にアカデミーを出ているのだ、本格の腕を持っているのだぞ、ユーゴーの如き出処の怪しい出来星文士とは違っているのだぞ。(注8)介山にとっての不幸は、石井との対立が著作権の帰趨をめぐる法的問題としてのみ― 205 ―

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