鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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理解され、今日にいたっていることである。この対立の意義は、『大菩薩峠』における机龍之助の「ゼロ」化という精神史的文脈のなかでとらえられて、はじめて明らかにしうるものなのである(注9)。4 「白紙」を描く介山 ─図像と「白紙」のあいだ(2)挿絵画家に対する介山の要求の背景には、絵に対する介山自身の関心もつよく関与していた。「創作と挿絵の問題」のなかで介山は述べている。…小生には自分から云うのはおかしいが多少の絵心がある、そこで絵というものに対しての希望や註文も相当に出て来る。同時に画家達の長所も短所も相当に見てとる癖を持っている。そこで書きながら一回一回を画面としてまた新たに頭の中で構図を立ててみるのである。介山の「絵心」が『大菩薩峠』の構想それ自体を支えていたことを示すテクストが、『大菩薩峠』連載開始の1913年に執筆された絵入りの創作ノート『人情風俗』である(注10)。この書き物は、都新聞社の原稿用紙に六四丁(四八-五〇丁欠落)にわたって記されたもので、江戸期の地誌『甲斐国志』(1803-14)、世相風俗資料『守貞漫稿』(喜多川守貞著、1837起稿、53頃一応完成)、『浮世の有様』(著者不詳、1806-46の京坂を中心にした世相の叙述)からの抜書、さらに五五丁以下には幕末の剣豪島田虎之助、近藤勇についての抜書や聞書が配されている。『人情風俗』に描かれた介山筆の絵には、禅宗で用いられる円相(悟りを示すために象徴として描く円)を思わせる形状の円形に、その枠をはみだすダイナミックなタッチの描線を重ねていく、介山の描画法の特徴がよく現れている〔図7〕。養老孟司は、芥川龍之介がデビューした大正3年(1914)─『大菩薩峠』開始の翌年─に起きていた重要な精神史的出来事として頭部(純文学)と身体(大衆文学)の亀裂を指摘しているが(注11)、この亀裂は、不可視のものと可視的なもの、本質と現象の亀裂という形で、介山の生涯と仕事をも最後まで貫くものだった。「作者介山の本当に『書きたかったもの』と『大衆の感動』との間の矛盾」を指摘した折原脩三は、「いちばん苦しんだのは介山自身だろう。その矛盾がこの作品をあれほどの長さにしたのだ」と述べているが、介山が試み続けたのは、純文学でも大衆文学でもない─介山が「大乗小説」という不熟な表現で言いあてようとした─第三の領域の模索だった。― 206 ―

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