鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴「鈴慕の巻」においてお雪ちゃんは、龍之助の夢のなかで、「自分は五年にもならぬ前、大菩薩峠の道を通ったことがある」という不思議なことを言い出す。龍之助の脳裏の暗闇に、巡礼の笠がはっきりうかぶ。『大菩薩峠11』筑摩書房(ちくま文庫)、1995、139-140頁。⑵玉流堂版、全一〇巻。のちに「間の山の巻」となる部分の初期形を書き終えていた1918年より順次刊行。現行版の原型となる。伊東祐吏が行った調査によれば、『都新聞』版からの改稿に際する削除率は30%にもおよんでいる(『「大菩薩峠」を都新聞で読む』論創社、2013)。改稿の背景については検討を要するが、その一つに、自作が「大衆小説」的に一括されることへの抵抗が存在していたと考えられる。⑶介山は、トルストイ『アンナ・カレーニナ』における「年増夫人」の描写を比類なきものとして高く評価しているが、それを龍之助の描写に活用したものと思われる。『百姓弥之助の話』(全七冊、1938)の第四冊「イワンの馬鹿の巻」(『中里介山全集19』筑摩書房、1972、173頁)、および日本近代文学館成田分館「中里介山文庫」所蔵の介山蔵書『アンナ・カレーニナ』への書き込み。⑷折原脩三『「大菩薩峠」曼荼羅論』田畑書店、1984。この考察に示唆を受け、展開を試みた作品論が、野口良平『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社、2009)である。⑸介山はのち『大菩薩峠繪本』春秋社、1936、野口昂明画の口絵を井川に依頼し、作中人物のお浜、お豊、お君の肖像を掲げているが、その序文でこう述べている。「顧みれば、私が初めて小説を書きだして井川洗厓さんの御厄介になったのは、まだ青年時代で、洗厓さんの絵によってどの位引き立られたかわからない。私は、そういう縁故で実はこの絵本の第一冊は全部、洗龍之助の白骨籠り以後、主要作中人物の一人駒井能登守は太平洋上の無人島で、お銀様は胆吹山麓でそれぞれ理想社会の建設に取り組み、挫折するが、そのことは、理想社会の不可能性(無明)と理想への希求(夢見)のせめぎあいが、作品展開の動因となったことを示している。そして、その二つの世界の往還者の位置を机龍之助は占めるにいたるのである。介山が龍之助の姿を描いた絵のなかに、月の光を背から浴びた、のっぺらぼうの像がある〔図8〕。その龍之助は、舟に乗りながら頬杖をついているようにみえる。舟がどこに漕ぎ出されようとしているのかは定かでないが、その龍之助像は、介山が「白紙」という言葉にこめていた意味内容を、そのこともなげな風情とともに漂わせている。ここに描かれているのは、「のっぺらぼうの浪人男」ではない。理由なき殺人者としての龍之助が実体としては希薄化し、作中全体に気配として遍在するにいたろうとする、そのこと自体である。『大菩薩峠』における「図像的なもの」のあり方は、「絵心」をもってする絵への抵抗が、モチーフの明確化と、作品世界の広がりと深まりへの起動力としてはたらいたことを示しているように、私は思う。― 208 ―

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