注⑴各作品は分離派展で展示された年を一応の完成年とするが、クリムトは1907年まで加筆修正を関係性がはっきりしている。それゆえ女性の復讐と男性の恐怖といった男女の性差に基づく性格付けが一層明確になっている。そしてその描写において、復讐の女神と解される「エリニュス」の存在がこの描写の鍵となっていることは言うまでもない。1900年頃に生じたこの主題は学科絵以後に制作された作品にも身体描写と共に現れていることから、その後の画家の一貫した関心となっていた。加えて《医学》の転写スケッチ段階にて既に踊っているようなポーズが見られ、学科絵以後に制作された《ストックレー・フリーズ》の「踊り子」や、その「踊り子」の素描を出発点として《ユディトⅡ》(サロメ)〔図23〕が生まれている(注25)。クリムトが《法学》以前に多様なポーズを作り出す刺激の1つとしてダンスに接触し、《法学》以後もまた、ダンスがクリムトにとって造形的な刺激を与える要素であった。また、《医学》の構図の造形的表現にはロダンの彫刻からの影響も見られ(注26)、ダンスへの関心、及び彫刻を通じての造形的、あるいは構図に関する刺激を《医学》の制作時に受け、《法学》においてそれはクリムトの描写様式の展開と身体言語として主題に関係する、いわば本質的な部分に関与するに至ったと考えられる。7 おわりにクリムトは1900年頃に人間の歴史、あるいは生や死という壮大なテーマを身体によって表現することに関心を持ち、その探求は《医学》の身体描写から始まり、多種多様なポーズは線を通じて表現を広げていくと同時に、様々な運動が生み出すポーズの1つとしてダンスに出会った。しかしながら、クリムトにとってモダン・ダンスは単なる形態上の手本に限定されるではなく、画家の造形的、及び思考に本質的に関与する要素であった。というのも世紀転換期に身体が人間の内面や感情を表現する媒体として軽やかに展開していくモダン・ダンスとクリムトの関心は同一の方向にあり、さらに《法学》の空間の表現のあり方から特に彫刻のモダン・ダンスのモティーフへの取り組みが影響して新たな描写様式を生み出したからである。そして、このモダン・ダンスの展開から生み出されるポーズが身体言語として機能し、その言語によって人間の歴史や様々な感情といった主題を表現することが1900年前後のヨーロッパにおいて、造形芸術だけでなく文学や哲学など複数の領域に及んで生じており、クリムトもまたそうした流れの中にあった。― 218 ―
元のページ ../index.html#229