㉑ 吉野大峯八大童子に関する調査研究一研 究 者:一般財団法人今日庵茶道資料館 学芸員 米 沢 玲はじめに大峯八大童子は、修験道の霊場として知られる吉野大峯の修行者を守護する童子で、そもそもは山内の修行場に祀られる神であった。吉野大峯の信仰をあらわす「吉野曼荼羅図」や「役行者前後鬼・八大童子像」のほか、修験道を通じて吉野と繋がりを持っていた熊野三山の信仰をあらわした「熊野曼荼羅図」などに描かれる。修験道という文脈において、広く信仰されたと考えられる大峯八大童子だが、根本経典や儀軌がなく、その図像は多様である。修験道の中心的尊格であった役行者や蔵王権現の図像にはある程度の規範性が認められるが、大峯八大童子は不動八大童子との混同などから図像の選択における自由度が高かったのであろう。そのような特性は、個々の作例の制作背景を考察するうえで重要な手がかりになり得る。本調査研究では、大峯八大童子に着目し、その図像分類と作例の検討、そして大峯八大童子の図像に反映された個々の作例の繋がりを検討したい。前述のように、大峯八大童子を描く作例は、おおむね吉野曼荼羅図、役行者前後鬼・八大童子像、熊野曼荼羅図の三つに大別される(注1)。個々の作例に言及する前に、ここでは大峯八大童子に関する古記録を確認しておく。大峯八大童子について記す古記録や縁起類は比較的多いが、ここでは中世の作例を中心として検討するためそれ以前に遡る文献史料を取り上げる(注2)。まず、正嘉元年(1257)に愚勧往信が撰述した『私聚百因縁集』巻八「役行者事」に「所々金剛童子分置奉。所謂十五金剛童子留蓑尾。八大金剛童子大峯亦葛木七童子但未出光獄申一童子契未来当時不及現形歟」とあり(注3)、十五童子のうち八大金剛童子を大峯に、七童子を葛木にそれぞれ配置したと記す。続いて、大峯八大童子の形姿に関する記述を掲載する『諸山縁起』と『金峯山秘密伝』を見ていきたい。修験道に関わる古記録のうち最も古いとされる『諸山縁起』は金峯山や熊野三山を含んだ大峯・葛木・笠置に関する縁起で、九条家出身の三井寺僧である慶政上人(1189~1268)所蔵の写本として知られる(注4)。その成立時期は不明だが、以前より伝わった三つの史料群を慶政と僧行蓮なる人物が書写し、慶政が全体を校訂したものと考えられる(注5)。『諸山縁起』の「大峯金剛童子次第住所日記、禅洞始顕給」項には、大峯八大童― 224 ―
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