二子についてその在所や本地、名称や形姿まで詳述する(注6)。『金峯山秘密伝』は、金峯山にまつわる伝承や神仏の由来、行法等を伝える書物で、奥書によれば延元二年(1337)に法務僧正が撰述したという。法務については、後醍醐天皇の護持僧だった文観房弘真(1278~1357)その人と考えられているが、宮家準は金峯山に止住していた真言僧が撰述したものを弘真が後醍醐帝に進上したかとしている(注7)。『金峯山秘密伝』巻中「八大金剛童子事」、「八大金剛童子印言」には大峯八大童子の在所や本地、名称などが記述される(注8)。各童子の名称は『諸山縁起』では検始童子・後世童子・虚空童子・剣光童子・悪除童子・香正童子・慈悲童子・除摩童子、『金峯山秘密伝』では検増童子・護世童子・虚空童子・剣光童子・悪除童子・香清(精)童子・慈悲童子・除摩童子とし、多少の異同はあるもののおおむね一致する〔表1〕。熊野曼荼羅図のなかには和歌山県立博物館の熊野垂迹神曼荼羅図(鎌倉時代)のように、尊像の横に名称を書き記すものが見受けられるが、それら曼荼羅図中の名称ともこの記述は合致する。〔表1〕に示すように『諸山縁起』と『金峯山秘密伝』とを比較すると、前者では童子の容貌や姿勢などにも言及しており、より詳細な図像が判明する。持物に関する記述は両者で異なるものの、例えば独鈷杵と経巻を持物とする童子が『諸山縁起』では慈悲童子、『金峯山秘密伝』「八大金剛童子印言」では虚空童子となっており、共通点が全くないわけではない。そもそも『諸山縁起』がもともと個別に成立した縁起類であったため、その構成が複雑であるのに対し、『金峯山秘密伝』は尊格の本地や名号、道場観など密教の儀軌類に通じる要素があり、より整理された上で編まれた印象が強く、文献としての性格の違いを含め検討が必要である。大峯八大童子を描く作例のうち、熊野曼荼羅図は数十点の作例が現在確認されている一方、吉野曼荼羅図は比較的数が少なく、最古とされる西大寺本もその制作は南北朝時代・14世紀とされている。役行者の絵画遺品は中世から認められ、松尾寺や福住区の役行者前後鬼・八大童子像は鎌倉時代に遡る作例であるほか、元徳三年(1331)銘の輪王寺役行者八大童子板絵と延元元年(1336)銘の如意輪寺蔵王権現像厨子絵は、年紀が判明する作例としても貴重である。輪王寺板絵および蔵王権現厨子絵は大峯八大童子を描く古い作例であり、加えて両者はその図像に共通性を持っている。以下、それぞれの作例を見ていきたい。輪王寺板絵〔図9〕は横長の画面中央に腰掛ける役行者が描かれ、左右に前鬼と後― 225 ―
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