鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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鬼、そして四体ずつ大峯八大童子が描かれる。裏面に元徳三年(1331)の銘を有する一面のほか、同時代に描かれたと見られる一面があり、八大童子の配置に多少の異同があるほか基本的な構図や図像は一致している。裏面墨書によれば、大法師瀧□によって峯入りの行場に施入されたという。吉野山に位置する如意輪寺は南北朝時代に後醍醐天皇の勅願所となった南朝の有力寺院であった。厨子絵〔図1~8〕には、仏師源慶によって嘉禄二年(1226)に造立された蔵王権現立像が安置され、各壁面に吉野山の諸神を描くことで立体の吉野曼荼羅を構成する。右側面の扉には冬景色のなかに牛頭天王と、前鬼後鬼を伴う役行者をあらわし、正面右扉は桜の咲く春景に衣冠束帯の男神像、勝手明神と若宮、左側面扉は夏景色に二人の男神像、正面左扉には男神像、勝手明神と若宮を描く。大峯八大童子は厨子の後壁と左右壁に配置される。厨子底面には「延元元年正月十六日」「吉野山八ヶ院 拝領 地下」と墨書され、蔵王権現像より100年ほど降った延元元年(1336)に制作されたことが分かる(注9)。興味深いことに、輪王寺板絵と如意輪寺厨子絵は作風やその形態は異なるが、描かれる大峯八大童子の形姿がほぼ同一であり、かつその図像は『諸山縁起』の記述に基づくと考えられる(注10)。例えば『諸山縁起』の後世童子「左手に宝珠を捧げ右手鉾取つく、面の色は紅色なり」という記述と如意輪寺厨子絵の当該童子像(図5)は持物のみならず面色まで一致し、他の童子に関しても記述と造形に整合性が認められる。輪王寺板絵は剥落によって確認できない部分もあるが、各童子の姿勢や持物はほぼ如意輪寺厨子絵と一致する。日光山輪王寺は勝道上人(735~817)を開祖とする天台宗寺院で、中世には本山派修験の影響を受けて日光修験が成立する。当地に修験道を伝えたとされるのが、日光山二十三代あるいは二十四代座主で延暦寺や園城寺で学んだ弁覚(~1251)で(注11)、吉野大峰の行場である笙ノ窟の本尊として伝来した銅造不動明王立像の框上面に、彼の名が記されることは中世における両山の繋がりを示唆するものとして興味深い(注12)。如意輪寺厨子絵について、底板墨書の延元元年と『金峯山秘密伝』の奥書との年代的な近さから、その制作に文観房弘真の関与を考える向きもある(注13)。しかし、如意輪寺厨子絵に描かれる大峯八大童子が『金峯山秘密伝』よりむしろ『諸山縁起』記載の図像に一致することと、後醍醐天皇の吉野入山が厨子制作の延元元年年末であり、文観がその後を追って吉野へ入ったことを考え合わせると(注14)、直接の関与は想定しがたい。天台僧であった慶政上人が編纂した『諸山縁起』に基づくこと、同― 226 ―

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