鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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三図像が先行して輪王寺板絵に取り入れられていることを手掛かりに、今後制作背景を検討したい。ところで、同じく『諸山縁起』あるいはそれに基づく図像を典拠として制作されたと考えられるのが、神於寺縁起絵巻である。同絵巻と如意輪寺厨子絵の図像の近接性についてはすでに言及されるが(注15)、詳しく見ていきたい〔表2〕。神於寺縁起絵巻は岸和田の古刹・神於寺に伝来した縁起絵巻で、現在は国内外に断簡として所蔵されており、当寺には模本が伝えられるのみである。原本の制作は鎌倉時代末から南北朝時代初め頃の14世紀と考えられ、絵巻は役行者による開創を描く前半と、同寺を復興した光忍上人の事績を描いた後半とから成る(注16)。役行者が地主神と出会う場面では岩山に大峯八大童子が描かれているが、当該場面の原本断簡(穎川美術館所蔵)は、八大童子の部分でちょうど切断されており、四童子の姿しか見えない。ただし、模本では八体全ての形姿を確認することができ〔図10-1、10-2〕、左手で鬼の髪をつかみ右手に三鈷杵を執る童子や、左手に宝珠、右手に香炉を執る童子など『諸山縁起』の記述におおむね一致する姿である(注17)。画面の右端に立つ慈悲童子にあたると見られる童子は白蓮華を執っており、同縁起に拠らないが、これは不動明王二童子中の矜羯羅童子の図像を転用したかと思われる。神於寺はかつて葛城修験の霊場として勢力を誇った寺院であり、南北朝時代には南朝に与していたことが記録から知られる。八大童子の図像に反映されるように、絵巻の制作にあたっては『諸山縁起』に類する典拠が参照されたことがうかがえ、当該図像が広範に流布していたことを示唆する。輪王寺板絵、如意輪寺厨子絵、そして神於寺縁起絵巻に描かれる大峯八大童子は『諸山縁起』に説かれる図像におおむね基づいていることが判明した。いずれも鎌倉時代末期から南北朝時代初め頃の制作であり、『諸山縁起』の成立年代とも矛盾せず、縁起に説かれる図像がある程度の影響力を持って流布していたことの証左と言えよう。前章で検討したように、『諸山縁起』における大峯八大童子の記述は一定の規範となっていたと考えられるが、同図像に依拠する作例は現在のところ上述の三件しか見あたらない。ここで、吉野曼荼羅図および役行者前後鬼・八大童子像の作例について検討を加えたい。吉野曼荼羅図のうち最も古い作例として言及されるのが西大寺本である。図様から南朝方の関与が指摘されており、南北朝時代・14世紀頃の制作と考えられている(注18)。画面上方に配された八大童子は、角髪の童子形に羅刹形の童子が― 227 ―

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