四体混ざって配され、『諸山縁起』とは系統を異にする図像である〔図11〕。この図像はその後制作された吉野曼荼羅図において規範とされたようで、三室戸寺本・市神神社本・竹林院本へと引き継がれている。しかし、西大寺本の童子のうち、例えば角髪を結って剣を右手に執る童子は左手に女神と思しき人形を捧げており、これは『諸山縁起』中の記述に一致する特異な持物であり、右手に鉾、左手に宝珠を捧げる童子は同縁起中の後世童子にあたる。また、両手で柄香炉を持つ童子や、右手で剣の柄を握り左手を先に添える童子は後述する熊野曼荼羅図にしばしば見られる姿であり、西大寺本の大峯八大童子の図像は他本の要素を取り入れて成立した可能性が考えられる。また、吉野曼荼羅図でも室町期の如意輪寺本は、大画面で参詣曼荼羅図に近い図様を持つ作例だが、上方に描かれる大峯八大童子の姿は後述する熊野曼荼羅図に通例の姿で描かれており、吉野曼荼羅図と熊野曼荼羅図の繋がりを示唆する一例と言える。役行者前後鬼・八大童子像は、岩上に坐す役行者を中心として、大峯八大童子が周囲を取り巻く構図が多いが、役行者の顔の向きや大峯八大童子の形姿は作例ごとに異なるものの、例えば祖本を同じくする聖護院本と金峯山寺本、醍醐寺本と住心院本など図様が継承されて制作された作例が存在する。役行者前後鬼とともに描かれる大峯八大童子については石川知彦による論考があり(注19)、最初期の作例と考えられる松尾寺本から大阪市立美術館本まで作例を概観し、大峯八大童子の図像が不動八大童子に同化していく過程を考察している。石川が指摘するように、松尾寺本や聖護院本、醍醐寺本に描かれる大峯八大童子は『諸山縁起』の記述には合致しない一方で、不動明王に従う八大童子からの図像の引用が認められる。例えば松尾寺本の行者の左下、独鈷杵を挟んで合掌する坐像の童子は、白描図像ではあるが仁和寺の不動明王三童子像中の童子に合致し、右下の杖に頬をついて蹲る童子の姿も不動明王二童子中の制吒迦童子を連想させる。聖護院本ではやはり頬杖をつく童子の姿が制吒迦童子からの図像転用かと思われる。岩上に坐す剣を頭上にあらわした特異な姿の童子や宝剣と羂索を持物とする童子は、聖護院の熊野本地仏曼荼羅図に認められる。醍醐寺本と大阪市立美術館本の図像が不動八大童子にかなりの近接性を持っていることは石川の論にも説かれるところである。両本についてここでは詳述しないが、大峯八大童子の成立背景に不動八大童子が関わることは文献の面からも指摘がある(注20)。後述する熊野曼荼羅図においても密教図像の転用は認められ、段階的に不動八大童子の図像が混同されていったというより、当初から既存の密教図像を参照して大峯八大童子の姿が成立したものと考えられる。以上、吉野曼荼羅図および役行者前後鬼・八大童子像の作例を検討したが、そこに― 228 ―
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