鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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四描かれる大峯八大童子像には古記録や他作例との図像の共有や転用が認められる。次に熊野曼荼羅図の作例を概観し、吉野曼荼羅図ほかとの図像的な繋がりを検討したい。熊野曼荼羅図は、熊野三山である熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社に祀られる神仏を描き、その信仰と世界観を体現する絵画である。鎌倉時代以降に数多く制作されるようになり、現在50点近い作例が確認されている。熊野曼荼羅図は諸神を本地仏の姿で描く作例と垂迹形で描く作例とに大別され、吉野曼荼羅図に較べて構図は多様である(注21)。熊野曼荼羅図に描かれる大峯八大童子の図像を検討した吉田麻里は、その図像がおおむね同一であることを確認したうえで、形姿と『諸山縁起』・『金峯山秘密縁起』の記述を比較検討し、部分的には一致するものの古記録とは異なり典拠を別に持つものと結論づける(注22)。また、輪王寺板絵や松尾寺本を挙げ、役行者前後鬼像に描かれる大峯八大童子の図像が比較的『諸山縁起』に近いことを指摘しつつも、吉野曼荼羅図に描かれる八大童子は熊野曼荼羅図に影響を受けて成立したと論じている。例えば諸尊を八葉蓮華のなかにあらわす高山寺の熊野本地仏曼荼羅図と、社殿内に十二所権現をあらわす静嘉堂文庫美術館の垂迹神曼荼羅図とでは、構図が大きく異なるものの上方に描かれる大峯八大童子の図像は一致し、同様の図像は今回検討した限りでは17件の作例に見出せる(注23)。吉田が論じるように、熊野曼荼羅図に描かれる大峯八大童子はある程度の規範性を持って流布していたと考えられるが、仁和寺本や和歌山県立博物館本のように、色紙型に童子の名称が書き込まれる作例を比較すると、その形姿と童子名が必ずしも統一されておらず、図像と名称には混乱が生じていたことがうかがえる。熊野曼荼羅図に広く採用されていた図像ではあるが、『諸山縁起』・『金峯山秘密伝』いずれの記述にも一致せず、典拠は不明である。密教図像に範を取る図像も混在しており、香炉を両手に執る童子像は「田中本不動儀軌」中の「薬厠抳像」の両脇に立つ童子に通じる姿であるほか、弓矢を構えて右手を口元に当てる赤色の身色をした鬼形の童子は「走り不動」と称される個人像の不動明王二童子像(鎌倉時代)の矜羯羅童子像に一致し、不動明王八大童子像のうちでも同図像を採用する画像が存在する。上述の熊野曼荼羅図とは異なる系統の八大童子像をあらわすのが聖護院の熊野本地仏曼荼羅図である。聖護院本に描かれる尊格には他本には見られない図像が多く、寺門派の制作関与が指摘されているが(注24)、八大童子に関しても雲に乗る童子や角髪に着甲の童子など、特異な図像が選択される〔図12〕。童子のうち、弓矢を構える― 229 ―

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