鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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㉒ 岡田三郎助における光と色彩の探求について研 究 者:佐賀県立美術館 学芸員  岩 永 亜 季本研究の目的は、岡田三郎助がどのように光と影、色彩を捉え、探求していたかを検討することで岡田という画家の特質を示すことである。本報告では、西洋美術の受容、舞台美術との関わりに関する調査の結果に絞って報告を行う。尚、引用箇所に付した下線は全て筆者による。西洋美術の受容に関する調査岡田三郎助は、生涯のうち2度ヨーロッパを訪れている。明治30年(1897)~34年(1901)の文部省留学生としてのフランス留学と、昭和5年(1930)に文部省の命で工芸美術視察のために行った旅である。「名人と名物」(注1)等の言説からは岡田の西洋美術受容の様子を窺うことが出来る。また、留学中のルーヴル美術館での模写の成果であるフラ・アンジェリコの《聖母戴冠図》模写(東京国立博物館)、レンブラントの《自画像》模写、ホルバイン(子)の《ウィリアム・ウォラム》模写(いずれも東京藝術大学大学美術館)が現存している。あるいは、昭和2年(1927)の《水辺の柳》(個人蔵)、翌年の《楊柳》(宮内庁)の構図はコローを想起させるが、岡田は二度目の渡欧の際にヴィル=ダヴレーのコローの池を訪れ、風景を描いている。当時岡田宅に寄寓していた古沢岩美は、旅の間送られてくる品物の整理係として、古代裂、小刀などの他、ポンペイの壁画の「花摘む乙女」の精巧な複製を受け取っている(注2)。僅かに右頬を見せる後姿の女性像は《あやめの衣》(ポーラ美術館)の源泉になったと考えられる(注3)。また、岡田は画室の隅の柱にはゴッホの《ひまわり》の三色版を掲げていた(注4)。このように、岡田の言説や作品からは、その西洋美術受容の一端を知ることが出来る。しかし今回は別種のアプローチとして、岡田三郎助の旧アトリエ〔図1〕に残る書棚の一部(※キャビネット〔図2〕の内、左の棚上段のみ)の調査を行った。岡田は明治41年(1908)、渋谷の伊達跡(現渋谷区恵比寿)にアトリエを構えた。岡田没後、辻永に受け継がれたこの画室は、現在もほぼその姿を保っており、一部の資料も残っている。ただし辻時代のものも混在しており、抜けがある可能性が高いことには留意が必要である。調査の結果は、岡田の没年である昭和14年(1939)以前か時期不明のものに限れば、〔表1〕となった。ポートフォリオは、「1921」と記されたスケッチや、山羊の図― 235 ―

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