鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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案のスケッチを複数含んでおり、辻の留学時代のものと判断される。ただし、スケッチや写真は工芸品の図案を示すものが多く、岡田の工芸への関心の高さからして、辻と知識を共有していてもおかしくはない。4冊のスクラップブックには欧州美術の写真が貼付してある。本報告では一例として1冊目のみリストを添付する〔表2〕。ほぼイタリア美術で、Anderson(Domenico Anderson, 1854-1938)撮影の写真が最も多く、C.Naya(Carlo Naya, 1816-1882)等が続く。〔表2〕には入っていないが、ボッティチェッリ《春》がアカデミア美術館蔵になっているので、1919年以前の写真とわかる。アンダーソンはローマ、ナヤはヴェネツィアで活動した写真家だが、いずれも岡田再渡欧時の行き先と重なる。また、サン・マルコ美術館のフラ・アンジェリコ作品を紹介した小冊子FRA GIOVANNI ANGELICO and the Museum of San Marco Florenceは1930年発行であり、岡田が現地で購入した可能性が高い。スクラップブックにもサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコ《受胎告知》の写真とカラー絵葉書(サン・マルコ美術館のスタンプが押されている)が含まれている〔図3〕。岡田は再渡欧の際には、フィレンツェで熱心にフレスコ画を見て回り(注5)、帰国後フレスコ画を試みている。また、スクラップブックにはミラノのポルデ・ペッツォーリ美術館の絵葉書やミラノの美術品の写真もあり、現地に立ち寄った可能性が示唆される。1880年刊行のブーシェの大型図版は、前掲「名人と人物」で「行きたてから歸る時までも嫌ひだつた」が「此頃ではも少し研究して置けばよかつたと思つています……ブーセのやつた樣な仕事に近いことに興味を有つて居るからでせう」と語りつつ示した(注6)ものかもしれない。舞台美術との関わりについて明治34年(1901)に留学から帰った岡田は同年に東京美術学校教授に就任、以降文展の運営に携わるなど、画壇の中心人物の一人になってゆく。一方で、岡田や周辺の白馬会系画家達は舞台美術にも携わっていた。山本芳翠を嚆矢に(注7)、歌劇『オルフォイス』の上演(明治36年(1903)、東京音楽学校奏楽堂)(注8)ほか、白馬会系画家がしばしば舞台美術を手がけ、そこには岡田の名も登場する。岡田が初めて本格的に舞台美術に携わるのは、明治40年(1907)1月に新富座の第二幕に演じられたモリエール作草野柴二訳の喜劇『寫眞』である。岡田によると、前年の暮れに「河合武雄が小山内薫君と同伴で來」て「「寫眞」が佛蘭西種であるから」― 236 ―

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