と背景を頼まれ、北蓮蔵に相談の上、美術学校の生徒や卒業生計八人で四日間で仕上たという(注9)。岡田は明治39年(1906)の末に小山内の妹八千代と結婚しており、その縁で依頼が来たのだろう(注10)。岡田自身が語るところによれば、この喜劇の第一の庭園にはムードンの晩春~初夏の風景が描かれた。絵の具は膠とゴム等を混ぜたという。岡田は、木は西洋銀杏とマロニエ、プラタナス、植木はゼラニウム、手すりや休み台はフランス特有の石という設定で書割に……と、草木や石の種類に気を配っている。またペンキ屋の店構えを日本向けにしたこと、落書きをしてそれらしく見せたこと、下手の風景は自分の不在時に出来たためフランスらしからぬところがある旨も語られている(注11)。公演は好評を博し、明治40年(1907)1月8日の朝日新聞には「連日満員の大入」とある。川柳作家の阪井久良岐は「塲面がスツカリ外國式に出來たのは嬉しかツた(注12)」と好意的な評を寄せた。岡田は、その経験に基づきフランスらしさを演出するよう求められ、積極的にその成果を上げたといえる。以降、岡田は一時的に新劇に接近する。翌年、明治座の『歌舞伎物語』では、岡田を筆頭に和田英作、北蓮蔵、中澤弘光らが背景や道具立てを考案、衣裳などの色彩配合も工夫した(注13)。明治42年(1909)に小山内薫が市川左団次と自由劇場を旗揚げすると、岡田らは継続して舞台美術に協力した(注14)。同年の明治座の『結構療法』では、少なくともスガナレルの座敷の正面部分の下方を岡田が担当している(注15)。この公演の衣装はアメリカで演じられた『ミザントロープ』の写真を参考に、白馬会会員達の助言を受けて作られた(注16)。また、自由劇場の第一回試演『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の下準備が、岡田の画室で行われたことは特筆すべきである。八千代によれば、「背景の方は、岡田が引きうけたので、北蓮蔵氏、中澤弘光氏、和田英作氏等がその下圖を造るために澁谷の岡田の畫室に集まつて徹夜をする、いよ〳〵舞臺稽古となる前夜には、辻永氏、松山省三氏、平岡権八郎氏、青山熊冶氏、其他美術學校の卒業生が大勢總動員で大道具を手傳ふ有様であつた」という(注17)。舞台は耳目を集めた。顧問の島崎藤村は「遠近法の正しいことや、色の配合に注意したことや、光と陰との知識に富んで居たことなぞは、どれほどあの舞臺上の効果を助けたか知れない。(注18)」「あれだけの準備をすることの出來たのは、全く斯(岩村透言うところの)『アミイ』の力だと思ふ。和田、中澤、北、其他の諸君は、徹夜をして迄も背景を描いて今度の試演を助けた。(注19)」と述べている。なぜか岡田の― 237 ―
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