鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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名がないが、彼らは「アミイ」(友誼)のもと、知識と技術を駆使して舞台背景を手がけたのであった。その後も、自由劇場の公演のたびに、岡田の画室が基地になったようだ。田中栄三は次のように述べている─「岡田先生の畫室は、自由劇場の始まる前には、いつも舞臺美術研究所みたようになつた。(注20)」与謝野晶子が「岡田畫伯などの御苦心なさつた丈あつて第一に舞臺が目新しく整つて居ました(注21)」と記す自由劇場第四回試演『河内屋與兵衛』では、舞台面の設計担当は平岡権八郎だったが、平岡はスペイン建築を調べた岡田の助言を受けていた。実現しなかったが、岡田は窓から見えるセビリヤの街の景色を「もつと深く飾つて段々と日が暮れて行つて、河向うの家へ燈火が點く」ようにし、「一體此の道具は中二階にしてバルコニイから夜の街の景色を向かう全體にして、いろ〳〵な女や男が往來する有樣を見せたら好からう」と考えていたらしい(注22)。「微笑するが如く窓に輝」く南欧の五月の夕日(注23)から夜への変化、夜明けの調子は、光線を利用して表現された。島崎藤村は、「私は先ず豊富な色彩に心を惹かれた。……私は舞臺の上にいろいろな繪を見つけた、舞臺其物が美しい畫だ。長崎人が取出して與兵衛に見せた阿蘭陀風の畫帖、ドンファンの佇む窓から見えるセルヰ゛アの色、夜明方の店頭の障子にうつる朝の光―あれは皆畫の中の畫だ。(注24)」と評している。色や光の表現が重要なこの演目は、岡田にも興味深いものだったろう。尚、小山内薫は、この試演についてのインタヴューを岡田の画室で受けており、岡田からスペイン製の椅子を借りたと述べている(注25)。確かに、舞台写真〔図4〕に見えるものと同じ椅子の端が、明治42年(1909)の写真〔図5〕最右に写っている。また、里見弴によれば、小山内は一時、岡田家に同居していたという(注26)。ところで岡田自身は、留学中に舞台を見たのだろうか。『歌舞伎』には、岡田提供の舞台写真が計3点掲載されている〔図6~8〕。岡田は「其んなに向ふで芝居は澤山見なかつたが…(注27)」というが、恐らく『シラノ・ド・ベルジュラック』は見たのだろう。1897年初演(ポルト・サン=マルタン座)のこの舞台は、当時最も成功したものの一つであった。自由劇場の旗揚げ前夜から協力を続けた岡田だが、大正8年(1919)頃になると舞台美術から離れていく。その一因は、舞台装置そのものの性質に求められるかもしれない。明治42年(1909)頃には、既に写実的過ぎる背景への批判があった。青柳有美「背景改悪論」は、背景を改悪して観客の注意を惹かないようにするしかない、と述べる(注28)。対して『歌― 238 ―

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