活きたものたち(living things)に満ちたものにするために、カンヴァスを埋めていたんです。その意味では、空虚なものだと思い込むことによって、カンヴァスを空っぽにしていたんです。ところが突然、この《ワンメント》という絵画で、私は表面をすでに満たしていることを悟ったのです。それは充満していたのです。その瞬間から、ほかの諸々の作品が、雰囲気に満ちた(atmospheric)ものに見えてきました。《ワンメント》で、私は、その雰囲気を取り除いたと言ってもいい(注1)。絵具で埋められたからっぽなカンヴァスとは、文字通りの「空虚」であり、空虚を準備することは、カンヴァスの内部を「活きたものたち」の雰囲気で満たすことに関わっていた。しかし《ワンメントⅠ》の平坦な色面は、垂直に引かれた一本のストロークによって一気に「充満」する。《ワンメントⅠ》において生じたのは、空虚の充満、無の充溢という逆説的な事態である。ニューマンはこのような事態が、重大なパラドクスであることに気づいていた。絵画ってのは何なのか? カンヴァスをいっぱいにすることです。こんなに幅が広くてこんなに背の高いカンヴァスがある、それを絵具でいっぱいにするんです。だけど絵具でいっぱいにしただけっていうふうに見えてはダメなんだ。そこがパラドクスなんですよ!(注2)絵画とは、「パラドクス」である。なぜならそこでは空虚と充満が共存・両立するからだ。《ワンメントⅠ》とは、そのようなパラドクスが一挙に解消される場の出現を意味したのである。これ以後、空虚/充実のパラドクスは、ニューマンの絵画を駆動させる、もっとも基本的な思考の原理として機能することになるだろう。本研究において私たちは、その「パラドクス」が《ワンメントⅠ》のみならず、キリストの14留の十字架の道行きを主題にした連作「十字架の道行き―なんぞ我を見捨てたもう」(1958-66)などの諸作品においても特殊な様態で実現されていること、さらにそれを通じて、ニューマンが生と死の超克という主題へと突き進んだことを見ていきたい。2.無の現前1970年に発表されたニューマンに関するテクストで、美術家のドナルド・ジャッド― 14 ―
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