鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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舞伎』106号には、岡田の「背景改良論」が掲載された(注29)。ここで岡田は、「背景が役者を喰つてしまつてゐるのは、……一つには背景が惡いからだと思ふ。」と述べ、改良すべき点に「光線」「生々しい實物を使ふ事」「構造」を挙げる。光線…今の光線の用い方では「着物との調和が取れない」。実物…「前に實物があるから背景も其と調和させる爲め」背景の調子が強くなる。舞台構造…天井が低く「輝いた空を見せることが出来ない。」「光線」「実物」に対する発言からは、岡田が「調和」を重要していることが分かる。岡田は、時代裂と裸婦のとりあわせに調和の美を見いだし、色の調和がもたらす裂の趣きを愛でた人物であった。舞台美術に諸要素の「調和」が求められることは当然としても、岡田にとっての「調和」について考えさせられる。また、光線については特に「歐米の劇場のやうに特に強い光線で役者だけを照らす」よう主張している。この主張は『寫眞』に関する談話にも見られる。スポットライトによる効果は岡田にかなりのインパクトを与えていたのだろう。尚、明治34年(1901)の岡田の作品《薔薇の少女》(石橋美術館)は、スポットライトで照らし出したような似た光の表現を用いて、足元に一輪の白薔薇を落として胸に片手を当てる少女を描いている。主題が共通し、かつ岡田が見知っていた可能性が高い舞台作品は現時点では見当たらないが、右足を一歩出してやや重心を傾けた少女の体勢も相まって、《薔薇の少女》の構図は役者の立ち姿を写した舞台写真を思わせる。しかしながら、岡田の意見がどうであれ、やはり舞台美術と絵画は異なるものであった。伊藤静雨は「新進洋畫家諸君が背景に筆を染められる塲合には、舞臺全體の構造を呑込んで頂き度い」と述べ、若い洋画家の不勉強に苦言を呈した(注30)。坪内逍遥も「舊歌舞伎風の史劇や世話物」「活歴仕立の史劇」と油彩画の背景は「虚らしい言動と背景の實らしいのが」折り合わず、油絵具の色の生々しさが衣装の色や言動と不適だと述べている(注31)。また新富座『天の網島』の竹内栖鳳による背景は「寫實的要素のみを意識したる上に建てたる繪畫化と、それに伴ふ劇そのものとは無關係なる情調の表れのみである」と批判された(注32)。栖鳳は洋画家ではないが、相通じるものがある。岡田達は明治45年(1912)の『タンタヂイルの死』では図案風の舞台を考案し「氣取つた古代模様の額縁の中に同じく古代の畫を窃つと箝め込んだといふ形(注33)」に仕立てるなど工夫を重ねていた。しかし当初彼らに求められた役割は、徐々に不要となっていた。自由劇場の公演頻度が下がったという理由もあったかもしれないが、岡田はやがて舞台美術から遠ざかる。一方、大画面制作としては政庁舎の壁画制作等― 239 ―

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