注⑴K生記「名人と名物」『美術週報』114号、1916年6月、6-7頁⑵古沢岩美 『美の放浪』文化出版局、1979年、62-63頁⑶松本誠一「作品解説」『アサヒグラフ別冊美術特集 日本編69 岡田三郎助』朝日新聞社、1991年⑷『畫人岡田三郎助』春鳥会、1942年、274-275頁⑸前掲『畫人岡田三郎助』59頁⑹前掲「名人と名物」7頁⑺黒田清輝「山本芳翠氏の逸話」『日本』1906年11月22日、『黒田清輝著述集』東京文化財研究所、の仕事が増えていく。このような推移は、岡田三郎助・八千代夫妻の別居を後押しした遠因の一つであったかもしれない。大正9年(1920)の『演藝画報』には、土方與志主宰の友達会の「舞台模型展覧会」に対する岡田の評が掲載されている。そこで八千代は、「わたしも『サロメ』が一番好きでした……」と付け加えており、「舞台」と「美術」を鎹に夫に寄り添おうとしているようにも見える(注34)。しかし《支那絹の前》(髙島屋史料館)制作時には八千代は既に「ひとの細君業がいやになって」おり(注35)、大正末には別居に至る。いずれにせよ、岡田が舞台美術に携わり、留学で得た知識を用いたこと、また舞台面に調和を求めていたことは興味深い。中村研一によれば、岡田は長い間、アトリエの隅に舞台模型を置いていた(注36)。むすび今回の調査では、旧岡田のアトリエ調査の機会を得て、昭和5年の欧州旅行に関する言説と一部合致する結果をみた。また文字資料を頼りに、岡田が舞台美術にフランスでの体験を活用していたこと、岡田の画室が自由劇場の下準備の場であったこと、岡田が舞台美術において全体の調和を意識し、またスポットライトによる光の効果に関心を抱いていたことを確認した。しかし、未だ検討中の資料も多く、本報告では作品との詳細な検討・考察までは踏み込んでいない。加えて、本報告で割愛した写真や映像の考察についても、いずれ今回の調査で得た知見と統合させていきたい。また、今回の調査では検討しなかったポートフォリオは、むしろ辻永研究の手がかりになるものであろう。末尾ではあるが、御厚意により多くのご助力をいただいた岡田の旧アトリエ管理者様をはじめとする関係諸氏に改めてお礼を申し上げつつ報告を終える。― 240 ―
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