1 聖観音・梵天・帝釈天三尊像の造像理念をめぐって㉓ 愛知・瀧山寺伝来の鎌倉時代初期慶派作例2件に関する調査研究(1)三尊像の造形表現の特徴研 究 者:和歌山県教育庁 生涯学習局 文化遺産課 技師 三 本 周 作はじめに愛知県岡崎市に所在する瀧山寺には、鎌倉時代に顕著な活躍を見せた慶派仏師に関わる彫刻が2件伝存している。1つは、『瀧山寺縁起』(以下、『縁起』)(注1)から、源頼朝追善のために僧・寛伝が発願し、仏師・運慶が造像したと知れる聖観音・梵天・帝釈天の三尊像(以下、三尊像)〔図1〕、いま1つは、同寺観音堂本尊で、仏師・快慶の作風との親近性が指摘される十一面観音立像(以下、十一面観音像)〔図3〕である(注2)。前者は『縁起』により正治3年(1201)正月の完成とわかり、後者は様式からおおよそ12世紀末~13世紀初め頃の造像と見られる。今日、鎌倉時代彫刻史研究は飛躍的に進歩しているといえるが、そうした中で、本二例は当期の著名仏師に関わる重要作例でありながら、なお検討すべき課題をいくらか残している。まず三尊像については、造像背景にある人的ネットワークが『縁起』を中心とした史料分析から明らかにされているが(注3)、一方で造形表現に関わる問題にはあまり踏み込んだ論及がなく、依然として不明瞭な点が多い。また十一面観音像に関しては、造像当初の彩色・金銅製装身具を伝える保存の良好さが賞されながら、こうした細部形式の分析は進んでいない状況にある。本稿では、瀧山寺伝来の本二例について上記視点から考察を加え、両像が鎌倉時代彫刻史上に有する意義を改めて問いたいと思う。『縁起』から知れる三尊像造立のいきさつは次のとおりである。正治元年(1199)、同年に没した頼朝の追善のため、寛伝が瀧山寺境内に惣持禅院の建立を発願、その三回忌の同3年正月に完成を見た。本尊の聖観音・梵天・帝釈天像は運慶・湛慶父子の作であった。この内容は、文献及び像の様式上矛盾がなく、ほぼ事実を伝えていると見られる(注4)。また、三尊像の造像に運慶が関与したことに関しても、瀧山寺をめぐる人的ネットワークからの解明が進んでいる。今日の三尊像の評価は、ほぼこれに尽くされているといってよい。ところで、一連の研究の中で指摘されたことに、像の造形に関わる問題がある。主には、①聖観音・梵天・帝釈天の三尊構成は、平安期以降、毎月18日に修された宮中― 245 ―
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